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紫式子日記

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私のフェミニズム観


下の記事に寄せて……と申しますか。

私もフェミニズムの何たるかをキッチリわかっていなかったかもしれないという自戒を込めて確認。

だから人によっては「んなの常識だろバーカ」ってところもあるでしょうが、そこはご容赦。

あと、あくまで「私の」フェミニズム解釈であって、他の論者さんとズレるところがあるのもご承知願います。



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現状に満足できている、と言うか、適応できている人は良いんですよ。

ただ、それができない人もいるんです。

そして、居心地の悪さを覚えている人がいる以上、環境を整えて(あるいは、調えて)あげるべきだ……というのがフェミニズムの姿勢ではないかと。



だからそれは決して男女を問わない話なんですよね。

ただ、そういう傾向は女性により強く見られるから、"feminine+ism"と名付けてあるだけで。



そしてその見方で世界・社会を見ていくと、「性別ゆえ」以外にも「セクシュアリティゆえ・民族ゆえ・人種ゆえ・年齢ゆえ・階層ゆえ」に居心地の悪さを感じている人がいる。

なので、その人たちが不快にならないような社会にしていきたいと考えて、そのために行動する……というのがフェミニストの動き方なのかと思います。



その際、既存の環境で居心地良く暮らしている人の居心地を悪くしてはいけない。

既存の環境に満足している人も、していない人も、居心地良く暮らせる環境になるよう、調整しなければいけない。

互いに不快感を抱くことなく、平穏に共存できるようにしていく。

そのためには恐らく、満足している人はしていない人の、していない人はしている人の考え・好みを知って、(理解はできなくても)許容する必要があるでしょう。

ひょっとしたら、そうなるようにするのもフェミニズムの仕事なのかもしれません。



初期のフェミニズムはまた違い、「男損女肥」的なところもあったかもしれませんが、今のフェミニズムは少なくともこの段階まで来ているように見えます。

ここまで来ると自由主義・平和主義を含んでいるとも言えましょうか。



以下、『ヌードのポリティクス』より抜粋。
ある人がかつて私に、フェミニズムとは究極的には「愛」なのではないかと語ってくれたことがある。

いかに他者に寄り添って、他者についての想像力を及ぼすことができるのか。

自分が今まで依って立ってきた考えや思いを一度、根本的に疑ってみて、自分のパースペクティヴとは相反する側の存在を認め、そこからもう一度考えや思いをいかに再構築することができるか。

誰を中心にすることもなく誰を周縁にはじきだすこともなく、それぞれの多様さ曖昧さを引き受けながらいかに理解し合えるか。

フェミニズムとは究極的にはそうした高度な愛の行為なのではないかというのである。



フェミニズムもジェンダーも男と女の対立概念ではない。

それは共生の思想であり、あらゆるセクシュアリティ、人種、民族、年齢、階級の人々が、お互いとお互いがより良く共に在るための、お互いがお互いをより理解するための、お互いがお互いをより愛するための、常に現在進行形の、たゆまぬプロセスにある行為なのではないかと思う。




フェミニズムが理想とする状態は、現実的には難しいものです。

でもだからこそ、戦いつづける意義と必要があるのだと。

それは決して敗者を出すための戦いではなく(敗者が生じるのはフェミの精神に反するので)、認めてもらうための戦いであり。

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