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紫式子日記

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『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』自分なり読解

『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』公式サイト

Amazon Prime配信


アマプラで無料配信期間が終わっちゃう! ということで慌てて観ました。
主題歌&主人公たちの母親の声優が、EGO-WRAPPIN’の中納良恵というのも気になりまして。

デフォルメが可愛くアニメーションが素晴らしく評価も高いのですが、私には物語の要素が多すぎて、ちょっと整理が必要でした。
そして整理の結果、これはものすごいアニメ映画だな!!?!という結論に達しました。

キャラクターの可愛さやアニメーションとしての素晴らしさ、音楽の見事さは、いろんなところでたくさんの方が語ってくださるのでそちらに預けるとして。
様々な読み取り方があるとは思いますが、私はこれは「自然と文明の共生」の物語なのかなと思っています。
もっと言えば、キリスト教的価値観と、アニミズム的価値観の和解を探って作られた物語です。

以下、「自分なりに」物語の流れと要素を整理したメモです。
同じようなこと言ってる人、既にたくさんいそうだけれども。
そしてめっちゃネタバレしております。

物語の主人公はベンという少年。シアーシャという妹がいます。
兄妹は、灯台守の父親と一緒に海辺で暮らしています。
2人の父親は人間ですが、母親はセルキー(※)でした。
(※陸では人間の姿に、海ではアザラシの姿になる妖精。)

母親はシアーシャが産まれる夜、
「ごめんなさい、もう時間が無いの」
と言い残して海に入っていき、父親の手元には、セルキーの毛皮(赤ちゃんアザラシの白いやつ)をまとった、産まれたてのシアーシャが残されました。
視聴者はここで「???」となるのですが、母親のこの言葉の謎は最後まで見ればわかります。

父親は優しく穏やかに兄妹に接しますが、心はずっと妻を失った悲しみに閉ざされていて、ベンを充分にケアできていません。
ベンが心を開くのは大型犬のクーだけ。
リードで繋いで、いつでも一緒ですが、その態度は少々高圧的です。
ベンは、母親を「奪った」シアーシャには、どうしてもきつく接してしまいます。
シアーシャは6歳になるというのに、言葉を話しません。

なんとなく『崖の上のポニョ』の宗介とポニョが結ばれた「その後」、という印象も受けます。
ポニョは人魚でしたが。



ベンもシアーシャも混血ですが、ベンは人間寄り、シアーシャはセルキー寄りに生まれたようです。
シアーシャが人間の言葉を話すことができないのは、自然=セルキーとして生きるか、人間として生きるか未確定の状態だからでしょう。
(※これはシアーシャが「女児だから」かもしれません。2人の両親しかり、「文明と自然」の対比において、「文明」は男性で、「自然」は女性で表現されがちなので。)

シアーシャは6歳の誕生日に、父親が隠していた、自分が産まれたときにまとっていた毛皮を見つけます。
シアーシャがそれを再び身に付け海に入ると、シアーシャはアザラシの姿になり、セルキーたちとしばし戯れます。
父はその姿を見て、妻同様、セルキーになる=自然界に還って自分のもとを去ってしまうのを危惧し、兄妹を母親(兄妹の祖母)に預けます。
犬のクーは、都会ではのびのび飼えないので、灯台に残る父親のもとに置いていかれます。
子どもたちが去った後、父親は、シアーシャの毛皮を海に沈めました。

2人の祖母は支配的な「文明」の象徴として描かれています。
かねてから、子どもたちは都会で暮らすべきだと主張し続けていて、シアーシャの誕生日には華美なワンピースを贈りました。
家にはキリストの画(イコン?)が飾られています。

ヨーロッパにおけるキリスト教の受容は、それまでの自然崇拝的な価値観を捨て、自然を「支配していく」価値観に置き換えていく歴史でした。
森林を伐採し、畑を開墾し、それまで土着の神々のためのものだった儀式やモチーフを、キリストのためのものであるとすり替えていきました。
(この辺の話は、『ゴシックとは何か』で読んだ内容に基づいています。)

祖母の家で不満を覚えるベン。
こっそり抜け出し、自力で灯台の家(=海辺=自然)に帰ろうと決心します。
祖母の家を抜け出すと、シアーシャもついてきます。
仕方なく、クーをつないでいたリードでシアーシャをつなぎ、ベンはシアーシャを引っ張って歩きだします。

バスの経路の果てにつき、ベンは徒歩で森を抜けることにします。
暗く深い、鬱蒼とした北部ヨーロッパの森です。
デンマーク出身の挿絵画家カイ・ニールセンの作品と似た印象を受けます。

森の中に入ると、シアーシャがベンを引っ張って駆け出します。
ここで、リードもまた、自然と文明の関わりの象徴であったことがわかります。
人間が生活する場所のシーンでは、ベン(=文明)がクーやシアーシャ(=自然)を引っ張る側でしたが、海辺や森の中など自然が優勢になる場面では、その立場が逆転します。

2人は森の中で、目印である「聖なる泉」にたどり着きます。
泉を囲う小屋の中には、祖母の家にあったようなキリスト教の図画が所狭しと並んでいます。
ここがキリスト教の聖地であることがわかりますが、かつてはケルトの聖地だったのでしょう。
キリスト教が伝播した中でも、自然を信仰する心が大切に扱われ、保存された。
キリスト教と土着の宗教が融合する場所、自然と文明が融和する場所で、兄妹も和解します。

が、セルキーの毛皮(=自然の中に生きる存在としてのアイデンティティ?)を失ったシアーシャは、どんどん衰弱していきます。
そして、ベンの目の前で、泉に引きずりこまれ、「自然」の暴力的な側面を象徴する、フクロウの魔女・マカにさらわれます。

マカは、母性のネガティブな面の象徴となっているキャラクターです。
行き過ぎた「自然」への回帰志向の象徴とも言えるかもしれません。
マカは、息子である巨人マクリルが、愛する者を亡くして悲しみにくれているのを見かね、彼を石化し、巨岩に変えていました。
兄妹の祖母は強引に兄妹を「自然」から切り離そうとしていましたが、マカのやり方もまた、「正しい」帰結ではありません。
(キャスティングの都合だとは思いますが、祖母とマカのCVが同じ声優さんなのは面白いことです。)

ベンはシアーシャを救うべく、マカの元に乗り込みます。
兄妹は力を合わせて、マカに優しい愛情、本来あるべき「母性」を取り戻させることに成功します。

シアーシャを救うには、父が捨てたセルキーの毛皮が必要であると教えてくれるマカ。
ベンは荒れた海に飛び込み、海底を目指します。
セルキーたちがベンを励ますように共に泳ぎます。

再びセルキーの毛皮をまとったシアーシャの歌は、オーロラとなって世界を包みます。
(恐らく文明化によって)危機に瀕していた妖精たちに活力を与え、巨人マクリルの石化も解きます。
マクリルと同じ、「石のように」なっていた、兄妹の父親の心も回復します。

兄妹の母親が、海から姿を現します。
母親はシアーシャに、毛皮をまとってセルキーとして自然の中で生きるか、毛皮を手放し、人間として文明の中で生きるか選ばせます。

ここまで来て、母親の「もう時間が無いの」と言った理由がわかります。
思うに、このお話での設定では、セルキーが陸で暮らし続けられるのに時間制限があるのではないでしょうか。
そしてそれは6年なのではないでしょうか。
6歳になったシアーシャが、陸と海、どちらで暮らしていくか決断を迫られたのは、半分セルキーの状態では、それ以上陸にいられないから、と考えると筋が通ります。
日本の「7歳までは神さまの子」なんて言い回しも連想されます。

「ベン」はベンジャミン、聖書に登場するベニヤミン=ヤコブの末の息子で、キリスト教圏では末っ子に付ける名前です。
もしかしたら、母親は自分が陸で過ごせるタイムリミットを意識して、元々は第二子を妊娠するつもりはなく、ベンを一人っ子として育てようとしていたのかもしれません。
これは完全に私の憶測ですが。

冒険の中で兄の愛情に触れていたシアーシャは、人間として生きる道を選び、言葉を得ます。
去ろうとする母親を引き留めるベンに、彼女は、歌と物語の中に自分はあり続けること、ずっと愛していることを伝えます。
いわゆる「もののけ姫エンド」ですね、一緒にはいられないが、共に生きる。
監督、やはりジブリファンだそうです。

答え合わせの監督インタビュー。
『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』公開~「このへんなようせいさんたちは、まだアイルランドにいるのです。たぶん。」~監督インタビューで迫る、「どうして“ポスト・ジブリ”と評されているのか!?」の謎

と、こんな感じで、自然と人間との共存についての事柄が、家族の物語に絡めて象徴的に描かれているので「要素が多いな」と感じるのですが、極端と極端(おばあちゃんとマカ)を示した上で中庸を取る道を示していて、新規性は無いものの、しっくり来る落とし所でした。
繰り返しになりますが、音楽とアニメーションの作画も本っ当に素晴らしいです。



はー、なんだか久しぶりに難しいことを考えて疲れましたが、文章にまとめられて良かったです。
お付き合いありがとうございました。

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