2006/10/13 Category : Social エロスの蒐集 〜21世紀のアダルトビデオの歴史と発展、そして「萌え」と性欲について〜 二村ヒトシさんという高名なAV監督がいらっしゃるのですがね。(※リンク先18禁注意)その方が10月10日の火曜日、慶応の 「蒐集の科学II」という授業で、ゲスト講師として講義をなさったのですよ。汗ばむくらいの陽気の中、拝聴しに行きました。(※以下、エロ内容注意) 開口一番、監督曰、「リュミエール兄弟も、最初は夜の営みを撮ったのでは?」云わんとなさったのは、「他人のSEXを見て楽しむ文化が存在する」ということ。続けて古代の祭祀がSEXに関連したイベントであったこと、巫女とは今でいうAV女優で、民衆の前で性交を行なってみせていたのでは、という話から講義は始まりました。タイトルにあるとおり盛りだくさんの内容でしたが、話の核となっていたのは「視線」。導入で触れた話も、20世紀のAVも、基本は「他人のSEXを見て楽しむ」ということ。ですが、21世紀になってビデオカメラがえっらい小さくなり、事情が変わってきたというんですね。自分の視点で映像を撮れる、いわゆる「ハメ撮り」が可能になったのです。その結果どうなったか。それまで「他人のSEXの追体験」だったAVが、「他人の」ではなく「自分の」と想像しやすくなり、オナニーしやすい方向へと移行したのだと。7〜8年前はこの兆候のピークで、世の中のAVは「ザーメン物」と「痴女物」以外要らねんじゃね? 的な風潮だったらしいです。前者は精液を掛けられた女優の姿のみが画面に映され、汁男優=自分の分身、精液=自分のもの、と想像しやすい。後者も、女優がカメラ目線で男性を責めたり、カメラに向かって身体を見せつけたりするため、女優が自分を見、自分に見せているのだと錯覚しやすい。両者は「男性性が女性性を侵す」「女性性が男性性を侵す」という、揺り返しによって生じた両極端のものですが、いずれも感情移入しやすいという点では共通しているというのが監督の弁でした。これを監督は「完全主観」と呼んでいます。ところで監督が業界入りしたのもこの時期でしたし、十八番とするものは「痴女物」ですが、監督が目指すところは「完全主観」とは異なっていました。監督が考えていたのは、「淡い物語性」がある方がエロいのでは? ということ。たとえば接吻。監督はこれをとてもなまめかしいと考える。それをAVで見せようと思った場合、男優の顔も写さなければいけないから「完全主観」は不可能。ですが監督は実際にそれをやってみて、結果、現在に至る高評価を受け続けています。この「淡い物語性」というのには、監督自身のセクシュアリティ・スタンスの揺れが反映されているというのもお話しになっていました。「淡い物語性」を目指した撮影では、監督は「責める女」「責められる男」両方になれる。「ジェンダーの揺れる瞬間がいちばん面白い」とも仰っていて、僭越ながら激しく共感。関連して、流通のお話・「ふたなり物」のお話もなさっていました。ゲストスピーカーらしい、充実した内容で楽しかったです。「萌え」は少々時間が足りず、食い足りない感じだったんですけども。「性欲込みの憧れ」と監督は定義なさっていました。おまけ。なにげに面識があったので、講義後のお食事@学食に同席させていただきました。授業を担当している教授たちが監督を相手にアカデミック用語でエロを熱弁していて、香ばしかったです♪ [1回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword