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紫式子日記

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【卒論】準備レポートから(1)「見る―見られる」


森村泰昌の言ってることって、対立するものを解消しようってことなんだよなぁと仮にまとめてみる。

それらの中でも、基盤になるのは「見る―見られる」の対立と、その解消をする「見つめる」。

そこに気づいて、題目を「美術家Mのまなざし」と改めました。



「視線」ってのは森村泰昌云々も含めて、私の好きなキーワードなんだよね。

二村監督の講演然り、『ヌードのポリティクス』(読み返さなきゃ)然り。



以下、担当教諭に提出したレポートから抜粋。



*     *     *

 森村は「見る―見られる」という「視線の力学」において、「見られる」対象が「見る」主体を「見返す」という状況が生じ、結果として対立が生まれる可能性を示す。

 「見返す」ということに関して引用されるものに、美術史家ノーマン・ブライソン氏の論考 がある。ブライソンは『肖像(双子)』(森村、1988)を、非西洋(=森村)が西洋を、かつ「オンナ」(=女装した森村)が「オトコ」を見返している点で、「美術史において視線の力学の再編成を試みている作品」と評価している。

(※注:『肖像(双子)』のベースとなっている『オランピア』(マネ)も、発表当時、ヌードの女性が堂々と鑑賞者を「見返して」いる点で物議を醸した。ブライソンはその点からも着想を得ているだろう。)



 「見る−見返す」の対立が招いた悲惨な結末として例に挙げられるのがマリリン・モンローである。森村は彼女の死を「『女優=女=男に見られる存在』という、映画と二十世紀文化における暗黙の了解に対する拒否」 であり、「二十世紀文化を相手に刺し違えた壮絶な死」 であるとしている。

 森村はマリリン・モンローの例から、「見る−見返す」の招く結果は破滅であると考え、その対立を是としない。そしてその破滅を避けるために、いずれとも異なる視線「見つめる」を提案する。



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