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紫式子日記

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【卒論】準備レポートから(2)「画家−モデル」および「セルフポートレイト」


前のエントリからのつづき)

んで、「見る−見られる」を基盤として据えたときに、森村泰昌の「セルフポートレイト論」もその延長として見えてくるんだな。



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 「見る―見られる」「見つめる」という関係性をより直接的に反映している項目として、「画家−モデル」および「セルフポートレイト」について述べたい。

 森村の中でセルフポートレイトと「見つめる」こととは分かちがたく結びついている。森村がセルフポートレイトを主題として扱っている評論で、現在私の手元にあるのは『美術の解剖学講義』「五時間目 セルフポートレイト論」と『空想主義的芸術家宣言』「第7の空想 セルフポートレイトについて」の2つである。前者の刊行は1996年(基となった講演は1995年)、後者は2000年であり、4年間の間隙がある。そのため「見つめる」ことに対する森村の論にも若干の相違が見られるが、セルフポートレイトを論じる際に「見る―見られる」という関係に対する新たな視線として「見つめる」を提示しているという点では共通している。








 『美術の解剖学講義』では、セルフポートレイトの発生過程に重点が置かれている。レンブラントを例に挙げながら、「見る−見返す」に加え、「見る側が自分をも見る」つまり「見る側」でありながら同時に「見られる側」ともなる状況を仮定する。そこでは「見る―見られる」という、いわば絵画を成り立たせてきた役割分担があいまいになる。その点においてセルフポートレイトは美術の鬼子だと森村は述べる。しかし「見る―見られる」が互いの立場を入れ換えあい、互いに「所有―被所有」を主張したのでは熾烈かつ堂々巡りの対立が続くだけだ、とも。ここで提案されるのが「所有―被所有」の意識を持たない第三の視線「見つめる」であり、そこに対立は起こらないとする。自身のセルフポートレイトは「見る―見られる」から出発した自己探求型セルフポートレイトではなく、「見つめる」から出発した変身型セルフポートレイトであるとして区別を図っている。(論理的整合性はあまり見られない箇所である。)

 『空想主義的芸術家宣言』では、プリクラ・液晶モニターつきビデオカメラ・カラオケ等の存在する状況を「セルフポートレイトな気分」と呼び、「見返す」ではなく「見せる(=魅せる)」欲望の現れであると考えている。こちらでは自身の作品を、「見返す」「見せる」に加え「見つめる」という視線が要素となったものとしている。鑑賞者に「森村さんの作品はお母さんのまなざしを思い出させられる」と言われた経験がヒントになり、見つめられるために自分の作品を見に来る人もいるのではないかと想像したことが出発点だったようだ。ひとまず「見る―見られる」間での対立は解消されているといえよう。



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シメ方がちょっとグダグダだぁね。

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