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紫式子日記

メインが耽美系アート・映画・絵画から、文房具・ライフハックに移行しています。だいぶ世俗化しました……。
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【卒論】準備レポートから(3)「西洋―日本」


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*     *     *

 セルフポートレイトの議論は、「西洋―日本」の関係性にもつながっていく。 表記は「西洋―日本」としたが、これはもちろん「西洋―非西洋」や「諸外国―日本」といった方が適切な場合もある。『空想主義的芸術家宣言』「第6の空想 空想主義的・現代日本文化論」での表現を借りれば「『マナ』的なもの―『カナ』的なもの」である 。

(※注:いずれも明確には定義されていないが、「マナ」的なものとは「文化の中心の世界進出を受けての国際感覚のキャッチのしかた」であり、「カナ」的なものとは「『マナ』的なものへの反動として内部で起こる文化的成長」である。)

 先回りして述べておくと、「見る―見られる」という対立の解消は、最終的には社会全体の破滅を回避する道となる、というのが森村の考えである。



 レンブラント同様「見る―見られる」の対立から出発したポートレイトを残しているとされるのが、三島由紀夫である。「西洋―日本」の対比に関する森村の議論は他にもあるが、そのほとんどに関連付けることができるというのもあり、今回は三島由紀夫に焦点を当てたものに留めて進めていきたい。

 セルフポートレイトと三島由紀夫が関連付けて語られるのは、先に挙げた『空想主義的芸術家宣言』「第7の空想 セルフポートレイトについて」である。そこでは日本人の「セルフポートレイトな気分」は高度経済成長でのファッションセンス・プロポーション両面の成長によるところが大きいとされ、西洋コンプレックスの終焉が見られているかもしれないと森村は述べる。

 その一方で「亡霊のように思い浮かべる」のが三島由紀夫だ。三島も、自らを被写体とした写真を多く残している。しかし三島のそれは西洋への文化的・身体的コンプレックスの表出であった点で、現代の日本の「セルフポートレイトな気分」とは異質なものであるとされる。「見る―見られる」に根ざしているとは明言されていないが、「西欧―日本」の関係が「見る―見られる」の関係であるとすれば、「見る―見られる」を意識し、なおかつその図式を印画紙の上に焼き付けたのが三島であった、とも言えるかもしれない。

 森村は「現代は、誰もが簡単に三島由紀夫(的世界)を足蹴にできる時代なのである」とまとめる。前述したように文化面・身体面ともに西洋へのコンプレックスは感じられなくなり、もはや「日本vs西洋」という構図自体時代錯誤になっている。三島は自らの肉体において「オンナ」から「オトコ」への性転換を試みたが(そして、日本という国自体にも同様の性転換を求めたが)、現代ではむしろ美輪明宏のような「オトコ」から「オンナ」への移行が、「賞賛されるべき未来形の選択」として尊敬されると森村は指摘する。そのような時代の変化において、三島を「亡霊のように思い浮かべる」のだとも。

 セルフポートレイトからは離れるが、『芸術家Mのできるまで』(筑摩書房、1998)には「三島由紀夫あるいは、駒場のマリリン」というエッセイが載せられている 。東大の900番講堂での、マリリン・モンローに扮したパフォーマンス について書かれている。幾分象徴的・観念的に過ぎるところがあるが、興味深い考察なので触れておく。


 森村は三島と明治天皇を比較し、両者が「オトコとして生まれながら幼少期オンナとして育てられ、再びオトコに性転換した」という点で相似の存在であると指摘する。さらに明治天皇は「日本」全体とも重ねられる。明治天皇は軍服を着てひげを生やした「オトコ」として国民の前に姿を示すことが望まれ、日本自体も明治維新・文明開化によって強く能動的な「オトコ」の国になることが望まれた。こうして三島=明治天皇=日本という図式が生まれ、三島もまた、日本の行く末を象徴しているのではないかという想像が述べられている。三島由紀夫は自衛隊に体験入隊して「オトコ」となり、結果として割腹自殺、すなわち「死」に至った。日本が「オンナ」から「オトコ」に性転換した結果も、三島同様「死」なのではないかというのが、森村の考えるところである。

 これと並列して述べられるのがマリリン・モンローである。2.「見る―見られる」で、彼女が「見る―見られる」という対立の犠牲者であると述べたが、ここでは「アメリカンドリームから生まれ、そしてアメリカンドリームによってズタズタに殺された『オンナ』」と言い換えられている。森村流に言えば、三島は「オンナ」の国に殺された「オトコ」であり、マリリンは「オトコ」の国に殺された「オンナ」なのだ。

 森村は「見る―見られる」の打開策として「見つめる」を挙げたのと同様、三島とマリリンを同時に救う手立てを提案している。マリリンは朝鮮戦争の際、現地に慰安に訪れているが、マリリンはそれによって死にはしなかった。彼女の死因は別のところにある。森村は社会人時代、自衛隊に体験入隊させられかけるも退社し、何年も後に「女優」として撮影で自衛隊を訪れたという経験を持つ。そのような自身の経験とマリリンの逸話を重ね、三島は「オトコ」として自衛隊に入ったために死を迎えたが、「オンナ」として基地を訪れた自分やマリリンは死んでいないことに気づく。そこで三島=「オトコ」にマリリン=「オンナ」を入魂することで、両者が生き延びる道を示したという。「オトコ」と「オンナ」を対立させるのではなく、両者が見つめあい、愛し合う道を指し示したと言えるだろう。

 森村は『黒いマリリン』と題した作品においても、ペニスバンドを付けてマリリン・モンローに扮し、同様の打開策を示している。



*     *     *

この辺の話は三島由紀夫に足をとられかけていたときにもした話。



んで、このノリで森村泰昌の主張をぜーんぶ「見る−見られる」に落とし込めたら楽しいなー、と思ったんだけど「美術的価値論」とか「真贋論」あたりはそうも行かないのよね。

でも「対立の解消」っていうのは通じるところだから、そのセンで行こうと思う。



あとそろそろアレだな

「独自の視点」とされる森村泰昌の思考の世間での扱われ方とか

森村泰昌について、誰かが語ってる文献とかを本腰入れて探さんと 岡部あおみしか見つかってない

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なんか王道はずれてるのが好き。
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残念ながらこれが私です。

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