2006/10/11 Category : Reports 【卒論】構成案を組みました あわよくばアドバイス・ご指摘いただけたらと企みつつメモ。題目は「芸術家Mから見た現代日本(仮)」【第1章】 森村泰昌プロフィールa.技法 −扮装(女装) −写真 −セルフポートレート ※シンディ・シャーマンとの比較b.題材・作品−セルフポートレート以前(〜1985)−「西洋美術史」シリーズ(1985〜)−「フリーダ・カーロ」シリーズ(2001)−「フェルメール」シリーズ(2004)−「ロス・ヌエボス・カプリチョス(ゴヤ『ロス・カプリチョス』)」シリーズ(2005)−その他(ゴッホ、マネ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、等)−「日本美術史」シリーズ(1990、1996)−「サイコボーグ(ポップスター)」シリーズ(1994)−「女優」シリーズ(1996)−「なにものかへのレクイエム(20世紀的なるもの/男たち)」シリーズ(2006)c.著書『美術の解剖学講義』1996年、平凡社『芸術家Mのできるまで』1998年、筑摩書房『踏みはずす美術史 私がモナ・リザになったわけ』1998年、講談社『空想主義的芸術家宣言』2000年、岩波書店『「まあ、ええがな」のこころ』2001年、淡交社『女優家M 演技の花道』2002年、晶文社『「変わり目」考 芸術家Mの社会見学』2003年、晶文社『時を駆ける美術・芸術家Mの空想ギャラリー』2005年、光文社d.図録・作品集『着せかえ人間第1号』1994年、小学館『レンブラントの部屋』1994年、原美術館 編、新潮社『美に至る病─女優になった』1996年、横浜美術館『森村泰昌[空装美術館]絵画になった私』1998年4月、朝日新聞社『女優家Mの物語 a Story of M's self-portraits』2001年、朝日新聞社『私の中のフリーダ/森村泰昌のセルフポートレイト』2001年、原美術館『DAUGHTER OF ART HISTORY』2003年、APERTURE(米)『LOS NUEVOS CAPRCHOS』2005年、SHUGOARTS他『卓上のバルコネグロ』2006年、青幻舎e.雑誌『超・美術鑑賞術―見ることの突飛ズム』2002年、NHK出版『プリンツ21 2005年春号 森村泰昌 諷刺家伝』2005年、プリンツ21【第2章】 森村泰昌の思想・学説(カテゴリーは暫定) a.美術論 −『踏みはずす美術史』「美術の極意」「モナ・リザになる」「巨匠はみんな下手だった」 −『美術の解剖学的講義』「人生論」「女優論」 −『空想主義的芸術家宣言』「芸術は食べられる」「『値打ち』について」 −『時を駆ける美術・芸術家Mの空想ギャラリー』b.真贋論 −『美術の解剖学的講義』「真贋論」 −『空想主義的芸術家宣言』「『物真似』について」「『お手本』について」c.文化論(西洋文化/日本文化) −『空想主義的芸術家宣言』「現代日本文化論」「現代上方文化論」 −『踏みはずす美術史』「アンディ・ウォーホルはポップではない」d.写真論 −『美術の解剖学的講義』「写真論」e.セルフポートレート論 −『踏みはずす美術史』「似ていることはいいことだ」 −『美術の解剖学的講義』「セルフポートレイト(ママ)論」 −『空想主義的芸術家宣言』「セルフポートレイト(ママ)について」 −『芸術家Mのできるまで』「シンディ・シャーマンあるいは、わが愛しの妹へ」f.演技論 −『女優家M 演技の花道』h.国家論 −『「変わり目」考 芸術家Mの社会見学』 −『芸術家Mのできるまで』「三島由紀夫あるいは、駒場のマリリン」【第3章】 森村泰昌説の検証○論理的破綻の指摘 ・・・ 「空想主義に基づく」という前提もあるが、森村氏は論理展開に無理があることが多々、ある。○社会学的考察との比較 ・・・ とはいえ、東西文化論(戦後日本文化は「父」なる西洋文化の「娘」)・セルフポートレート論(「視線」の学問)などで為される現代社会についての主張は、社会学で論じられるものと重なる部分がある。類似点と相違点を整理し、森村説の特徴を明確にする。○現代を理解する際の示唆となりうる主張○森村氏の活動は実際に「何かをつなぐ、シャーマン的なもの」たりえているか? [0回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword