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紫式子日記

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絵画と写真の関わり合いについて自分なりにまとめてみた。



細野晴臣氏の
「人間が正確なリズムを刻みつづけられる
って思うのはロマンだからね」
発言に触発され、
「人間が正確な写実を描ける
って思うのはロマンなんじゃね?」
という仮説を立ててみた。

音楽(リズム隊)だとコンピューター制御による
均一均等なリズムが自由な音楽の追求を許しましたが、
絵画にも写真が登場してくれたことによって
自由な表現を追求できる時代が
訪れたのではないだろうかと。



って話をするとやっぱり
19世紀末の
印象派から始まるんですねどうも。
当時ヨーロッパ画壇で幅を利かせてたサロン絵画はたぶん
「よりリアルに、写実的に」
ってことを志向していて、恐らく写真を参考にして
「正確に」描かれたと思われる作品もあります。

他方、写実的な手法を得意としていた画家たちが
アイデンティティを失って筆を折り、写真家に転向、
なんてこともあったそうです。
(ポール・ドラロッシュの弟子たち)

いずれにしても、当時の写真は
「写実的な絵」の一種として
見られていたようです。

印象派の画家たちが自分の頭の中の
「印象」を描けるようになったのは、
「正確さ」「写実性」を写真が
受け持ってくれ、絵画で思う存分
「実験」が出来るようになったから
なんですよねきっと。

そして絵画のこの流れが、
キュビズムや抽象画に
つながっていったのだと思います。

写真はシュルレアリスムとも相性が良いですよね。
フォトコラージュとか。
リアルだけど三次元の現実ではないから、
意味を剥奪・乖離・異化しやすいのかな。



こんな感じで写真が絵画を脅かすなんて思われたのはほんの一瞬で、
むしろ既存の絵画・芸術に「利用」されてる印象が
19世紀半~末にはあります。



しかし19世紀終わりに、カメラの小型化・軽量化、
現像のスピードアップにより
写真が報道にも用いられるようになります。
ここで絵画からの自立を果たし、同時に
写真は「報道写真」「芸術写真」に分岐します。

「芸術写真」の方は「誰が撮っても同じになる」という
前提からでしょう、絵画より下に位置付けられていました。
20世紀初頭~半ばに掛けては、
その見方に反論すべく
「芸術的な」写真の撮影技法が追求されます。
ぼかしとかね。

ここで外せないのがマン・レイなのかなー。
わざと現像を失敗して「写真にしかできない」
イメージを生み出すことに成功しましたよね。

また、アンリ・カルティエ・ブレッソン率いる
写真集団マグナムなんて人たちもいて、
構図的に美しい報道写真を撮影することで
「報道写真」「芸術写真」の分類に疑問を提示しました。



他方、絵画側の「写実」の要請も潰えはしませんでした。
20世紀アメリカのリアリズム絵画なんかです。
アメリカって国は人工的国家なので、
国としてのアイデンティティを得るために
「アメリカならでは」の表現を
生み出す必要があったんでしょうね。

敢えて絵画で「具象的」「即物的」なことをやるのが
アメリカの画家たちの答えでした。
ただしこれはサロン絵画への回帰ではなく、
情緒や装飾性を排したプラグマティックな動きです。
(この傾向はアメリカ文学にもありますよね。)

その「アメリカ的リアリズム」への
批評として、70年代前後の
ハイパー・リアリズム(フォト・リアリズム)があるっぽいですね。
写真みたいにリアルで細密な絵をでっかいキャンバスに描いて
観るものに「写真って? 絵画って??」という疑問を抱かせます。
ちなみにこの時代はコンピューターが
音楽に取り入れられはじめた時期でもあり、
「生身のものvs人工物」みたいな図式が
各分野に訪れてたりしたのかなーと想像してます。



そしていわゆる「現代アート」へ。
ノンジャンル化が進んでいると言われますし、
やなぎみわとか森村泰昌の作品も
パフォーマンス・アートをやって
それを撮影、作品化してるって
気がしてきたんですがどうでしょう。



参考文献:
『西洋美術史』美術出版社
『アート・トップ vol.207(2005/12、2006/1合併号)』芸術新聞社
『週刊美術館 26 ドガ/ホイッスラー』小学館
『週刊美術館 39 ワイエス/ホッパー』小学館

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