2007/04/09 Category : Art 「マグナムが撮った東京」展 家で『エロマンガ・スタディーズ』を読んでから、ファミマで『ブルータス』最新号「西洋美術を100%楽しむ方法。」を買い、『ゴシックとは何か』を読みつつ電車に揺られ、東京都写真美術館「マグナムが撮った東京」展を観てまいりました。私は何になりたいのかよくわかりませんが、なんか卒論からこっち吹っ切れたというか、好きなことを好きなだけ追う度胸が付きました。「マグナム」ってのは「熱いのをブチこんでくれよ(´Д`*;)」じゃありませんで、フォトジャーナリスト集団の名称。そのメンバー(ほとんどが欧米人なのですが)が来日した際に撮った「東京」の写真を年代順に展示する、という催し。「異文化から見た『TOKYO』」という観点でももちろん面白いんですが、私の目当ては創立メンバーの一人 アンリ・カルティエ=ブレッソン。森村泰昌の指導者アーネスト・サトウが、彼と懇意だったとかで、よく授業の教材に取り上げたんだそうです。そこで森村は「モダニズムの美学を学んだ」として、再三カルティエ=ブレッソンを扱っているのです。ちょうど『芸術新潮』でそれを特集した99年6月号「アーネスト・サトウの写真教室」を古本屋で手に入れたばっかりだったってのもあります。だから、マ、その追体験ですわね。森村がアーネストから教わった「モダニズムの美学」とは、「骨がある」こと。 20世紀前半の芸術って、建築につけ絵画につけ写真につけ、「骨組み」がしっかりしていて、しかもはっきりとわかりやすい、というのが特徴だそうで。モンドリアンなんか「骨」だけですしね。森村曰く、それが「モダニズムの美学」なんだと。そして「マグナム」ら、1950年代の報道写真のすごいところは、撮るべき「ニュース」を撮りながら、その「モダニズムの美学」も守っているところ。そういえば、ピューリッツァー賞の入賞作品なんかも「美しい」って思わされちゃいますもんね。で、そう思って観ると、確かに「マグナム」の写真には「骨がある」。「リズムがある」と言い換えてもいいでしょうか、同じイメージの反復、相似形、あるいはその流れを破るアクセント。誰のか忘れちゃいましたが、9本くらい蛇の目傘が並んで立っている中に、右から2番目に、1本だけ洋傘が混じっている。その感じとか。デパートのショーケースの前で、宿無しの女性が眠っている。その寝姿や、周りの物の配置が、偶然にもショーケースの中身と呼応している。そういう「偶然の一致」なんかを捉える技術。こういうのって、たぶん絵画でやったらウザいんですよ。わざとらしくて。写真だから許される。細部やディテールは、やっぱり違って写るし。なるほど、これがモダニズムの美学か、と一人感動。しかしその中にあっても、カルティエ=ブレッソンは別格上位の上手さですね。市川團十郎葬儀の写真なのですが、喪服で真っ黒な画面に、4人の女性の顔が白く浮かび上がっているんですよ。彼女たちの配置はひし形、そのひし形の中央に「告別式」の立て札の文字が、やはり白く浮かび上がっている。しかも彼女たちはそれぞれ違う方向を向いていて、図らずも逆時計回りに、円を描いて歩いているように見える。また表情が一人一人違う。右上から逆時計回りに進むにしたがって、無表情→目を閉じる→ハンカチで片目を押さえる→ハンカチに顔をうずめる……と、悲しみの表し方が大きくなる。このテンポ、このリズム、この進行。さすが「決定的瞬間」の人。ただ、この「美学」が守られるのも70年代まで。80年代以降の写真は、クローズアップや色彩の多様が見られ、恐らく映画の影響を受けている。「モダニズムの美学」を発現するに特権的だった写真も、いまやその独自性を発揮させた美学を失っている。確かに、もはやポストモダンなんだけどさ。美は世につれ。やっぱ「ポストモダニズムの美学」は、メディアミックスから生まれるのでしょーか、ね。 [0回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword