2006/11/29 Category : Books 酒井健『ゴシックとは何か―大聖堂の精神史』 ゴシックとは何か―大聖堂の精神史電車移動時用だったこの本……。読み終えました。いやぁ、ひさびさのヒット。(ひさびさも何も、そもそも学術書読んでナイってうわさ)いやでもホント、ガチで面白かったです。んで、読みやすいの。 ←これだいじ。不勉強な学生さんだから内容は中世のゴシック成立〜ルネサンスでのゴシック弾圧〜18cのゴシック・リバイバル、オマケでガウディ、って感じ。んでゴシック建築ばっかり延々と追ってるワケじゃなくて、当時の市民感情、政治的・宗教的戦略、他の文化とのカラミまでぜーんぶ書いてくれてある。曰く、「ゴシック大聖堂を通して我々はヨーロッパ文化を知ることができるし、 また逆にヨーロッパ文化の中にゴシックを置いて眺めることにより、 ゴシックの何たるかもわかってくるのである。」のっけから感動したのが、ゴシック大聖堂は農村から都市に流入してきた民衆の自然信仰心を慰め、かつ宗教面で統率するという相反した目的を満たすために建てられた、ってコト。 尖頭アーチは絡み合う大樹の枝、尖塔は森林。さらにゴシックっていうのは、土着の宗教とキリスト教の入り混じったもの ってだけでなく、自然界にあまたある過渡的な状態・未分化な状態をも映している ってのにゾクゾクした。ガーゴイルとか、確かにキリスト教のモチーフじゃないもんなぁ。いわゆる「キリスト像」を「磔刑のキリスト」にしたのもゴシック文化だったんだね。それまでは「キリスト像」=「勝利のキリスト」(悪魔を滅ぼし、王となったキリスト)だったのに、土着宗教的な「左極の聖性」が死への畏怖を求めたから、ゴシック文化では「キリスト像」=「磔刑のキリスト」になったんだって。(※「宗教社会学では聖なるものを、左右二極に分けて捉えている。不浄で不吉な聖性が左極、清純で吉なる聖性が右極だ。」本文より)聖母マリア崇拝も、土着の地母神崇拝をキリスト教に組み込もうとしたもの。こういう過程、日本の本地垂迹説の成立過程と似てるなぁって思った。洋の東西問わず、やることは一緒なんだね。けれどこういったゴシックの混沌とした世界観は宗教改革によって弾圧され、それとセットであるところのルネサンスでは幾何学的で明朗な意匠の建築が好まれました。サン・ピエトロ大聖堂とか。ですけれどもその揺り返し、ならびに民族感情から、ゴシック・リバイバルに至る……というのがこの後のあらすじ。そしてガウディって人の建築は、海とか鍾乳洞とか自然の形態をとりこんでいて、(物理的なバランスはすごく緻密に計算されているらしいけれど)見た目はすごく不規則・過渡的で、まさにゴシックの精神を反映している ってハナシ。なんとなぁく、ゴシックって好きだなぁ とか思ってたんですが、この本読んでゴシックの何たるかがちゃんとわかって、ゴシックへの愛がより深まりました。未分化・過渡的・混濁・混沌、そういう「境界が乱される場」ってのが好きなんですよね、私って。(だから、森村泰昌さんなワケだけど。)今シーズンの女の子ファッションはゴシック&バロックがキーワードだっていうんだけど、よもやレースやベロアでゴテゴテ着飾る彼女たちだって、バロックがこんなものだとは思うまいテ。卒論終わったらこんどゴシックについて何冊か読みたいな。いい導入本ありますかね? [0回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword