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紫式子日記

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マティスの自由

とゆーアレで、やっと行ってこれました、マティス展です。

絶好の美術館日和でしたね、いい作品を見た後屋外に出て太陽が輝いてると幸せな気分になります。



といっても私は悔し涙など浮かべながらこの展示を観てましたがね。
リンク追ってってくれればわかるけど、かなり奔放な色遣いをする人です。

それゆえ「自由な」とかって形容詞がかぶせられがちなんですけど。

でもそれは表面的なものにすぎなくて、目をこらすと、絵の随所に試行錯誤・描きなおしの跡が見られます。

今回の展示でも、マティスのそうした試行錯誤の様子を、彼自身が残した制作過程の写真を並べることでかなり強調していました。



それなのに、です。

「色がいいわねぇ」

「やっぱマティスは赤よねぇ」

っておばちゃん!

見てわかんねーのか、この赤の下には緑も青もべったり塗られてたんだぞ!

赤がくすんでるのが目に入らぬか!

今一番上に来ている色が鮮やかな赤だからって、マティスの仕事を「やっぱり」でくくるな!

あ、あとこれマジでいたんだけど、「理解できない」とか論外ね。

来んなと。

そんなに印象派が好きならミュージアムショップでルノアールの画集買って上野公園で読んでろと。



いいですか、確かにマティスの絵画は「自由」「奔放」ならびにその類義語を連想させます。

それはひとえに彼が自由を愛し、自由を表現しようとしていたからでしょう。

でも、です。

マティスが最初からその自由を手に入れていたと思うんじゃねぇ。



彼は不自由さの中であがいて、やっと自由さを手に入れた人なんではないかと思うのです。何度も描きなおされた線描が証拠です。

特に描きなおしが目立つのは人物なのですが、制作過程写真を見ると、最初の下描きは完成作品に比べ、人物が小さめに描かれていることがほとんどです。

マティスは現代でこそモダンアートの雄の一人として数えられていますが、やはり絵を描き始めた頃はアカデミックな、リアリティのある絵を描いていました。

そこに彼を縛っていた第一の「不自由」があるように思えます。

アカデミーの伝統にのっとった絵をつい描いてしまう、しかし肉体の目で見えているその像と、マティスが自分の中で感覚している「それ」の姿は異なっている。

だからマティスは画家生活の大部分において、「何度も描きなおす」という作業が必要になったのではないでしょうか。

アカデミーのやり方に縛られない、自分が感じているそのままの世界を描写する。

ことばにすると簡単ですが、実際は決してそうでないことを、マティスの制作過程写真は教えてくれます。

自分や自分の感覚に正直であるということが、こんなにも困難だと。



第二の「不自由」として数えたいのは、肉体です。

上とちょっとカブりますが、人物の描きなおしがとにかく多い。

目で見る限り、そこにある肉体がその人物と空間との境界線だから、マティスも最初その肉体の線を描いたのでしょう。

でも、描きなおしている。

大抵その描きなおしで、境界線を押し広げます。

何と言うか、描かれているその「もの」の魂とか、活動力みたいなものの境界線を提示している線を、完成作品における輪郭線として扱っている気がします。

マティスの絵が「自由奔放」と形容される理由として、躍動感のある絵をよく描くことが挙げられると思うんですが、絵画それ自体は止まっています。

絵画は動かないが、モデルの魂や活動力は動いている、キャンバスに描きとめた肉体の輪郭線を超えて。

この矛盾を解消し、より真実の……自分が感覚した……世界に絵画を近づけるため、マティスがとった策が「輪郭線を広げる」だったのではないかと。

それによって、「心の目」により忠実になれ、「肉体の目」からもある程度解放されます。

モデルとマティス自身、両者の肉体からの解放。



そしてこれまた上のものとカブりますが、第三の「不自由」。

これは絵画そのものだったと思います。

今日マティスの実際の作品を観て思ったのですが、キャンバスはマティスには小さすぎる。

絵画の停止した時間は、マティスには短すぎる。

輪郭を伴う技法は、マティスには不自由すぎる。

どうして彼が絵画というメディアを選択したのか不思議でしょうがありません。

舞台監督とかやらせたら、絶対盛り上がる舞台作りましたよ。

でも時空によって彼を縛る絵画を彼は選択し、愛した。

最後には「自由」にたどりつけたからでしょうか。

たどりついたその結果を、半永久的に残しておけたからでしょうか。

目に見える形、というのが大事だったんでしょうね。

目に見える自由、目に見える愛。

伴うあらゆる制約も承知でマティスが絵画というメディアを選んでいたのなら、彼の描いた自由の形はかなり複雑になりますね。

不自由を前提とした自由。

あるいは、不自由であることを自覚した上で得られる自由。



そう、誰も自由なんかじゃないんですよ。

世界で最も自由な人は、自分が不自由だということを最も敏感に自覚している人です。

これは私が社会学やって、社会があらゆるルールの上に成り立っていると考えてる、「社会学のルールに従った」人間なので出てくる台詞なのかもしれませんが……。

私たちはルールに基づいてでなければ、指一本動かせないんですよ。

そんな世界で自由にやっていくということは、見方によっては最大の困難です。

それこそ自分は自由だと思い込んで不自由に生きるのが一番楽ですよ、何も考えなくて済むんだから。

マティスのみならず、自由を体現している人はかなり不自由さを感じながら生きているはずです。

「生きづらい」って私や人文科学系の友人は言いますが。

生きづらいです。

自分の欲求や願望を自覚しても、それを叶えるにはルールを破らなければならない。

それはとても「しんどい」作業です。

ものを考えるという動作を伴いますからね。少なくとも自分が不自由であると「考え」なければならない。

ですが逆に考えれば、ものを考えられる脳を与えられているということは、私たちにはある程度の自由が保障されているということです。

皆さん、もの考えましょう。

それは人類の尊厳です。

ものを考えられることと生殖細胞を無駄遣いできることとは人類の二大尊厳なんです。

だからお願いです私と社会学の演習一緒の皆さん、「東京は選択肢が多いから自由でイイ!」みたいな自分の不自由さ自覚してないことバレバレのアホレポートほんとやめてください。



とまぁこんな大幅に話が逸れるほど苛立ち、クチビル噛んで悔し涙こらえながらマティスの絵、凝視してたわけです。

てめぇらマティスの描いた自由を安く見んなと。

マティスがそこにたどりつくまでに果たした労に気づけと。



それでもなおマティスの絵は明るい、優しい色彩を放ってたわけです。

なんであんたそんな苦労したのに最後に塗り重ねるのがこんな底抜けに明るい色なんだよ、

お陰で好き勝手言われてるぞ、とか思ってまた悔しくなりましたけど。

でもその底抜けの明るさと優しさが、マティスの魅力なんでしょうね。

悔し泣きする私はまだまだ心が狭いな、と思いましたよ。

優しいおじさんだったんだと思いますよ。

少なくとも自由という「よいもの」を描き出し、私たちに見せてくれるほどには優しいおじさんでしょう?

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