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紫式子日記

メインが耽美系アート・映画・絵画から、文房具・ライフハックに移行しています。だいぶ世俗化しました……。
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『アフターダーク』読了

私はいろいろと「いまさら」感が溢れる人間なのだが、またやってしまった。

今回は、いまさら『アフターダーク』読了。



あ、読んだ人しかわからないこと書くから。

ごめーんね。

拍手[0回]

ていうか私『海辺のカフカ』読みきったときは特に何も書かなかったのにな。

相当『アフターダーク』が気に入ったと見える。

そう、気に入ったんです。

「今までと違う」とお嘆きのハルキストの方も多くいらっしゃるとは思うのですが、なんだか私、村上春樹は、こういう小説を書くべき時期だったんじゃないかと思うのですよ。



ひとつには、「あっちの世界」についての描写が明確なところから。

物理的移動がある、ってはっきり書いてありましたよね。

『ねじまき鳥』『スプートニク』etc、中期以降の村上作品において「あっちの世界」はおなじみの世界観(んー、同語反復)ですが、ここまで「あっちの世界」を具体的・客観的で明確な言葉で読ませてくれたことはなかったじゃないですか。

なんだか、村上春樹自身が「あっちの世界」というものをきちんと定義づけておきたかったんじゃないか、という気がするんです。

今後、村上作品における「あっちの世界」の扱われ方は変わるんでしょうね。



もうひとつは、人間関係の描かれ方がリアルになってるところから。

ちょっと言葉が足りないな。説明しますね。

『海辺のカフカ』にもこの傾向はあったんですけど、脇役(と呼ぶにはあまりにも濃すぎる人々ですが)たちのエピソードが、今までの作品に比べ、少ない。

『ねじまき鳥』の多さと比べると、歴然。

『カフカ』『アフターダーク』が食い足りなさ・中途半端さを感じさせるのはその少なさのせいだと思うのだけれど、でもこっちのがリアルっていうか。

私たちが受け入れるべき世界の在り様っていうか。

だってさ、私たちがこの世界で一緒に生活してる誰かさんの、何%を知ってる?

この小説に描かれている人物たちについての情報量くらいがせいぜいだと思うんですよ。



あと、符合の少なさもリアル。

ま、小説はアンリアルを描いてナンボと言ったらそれまでなんですけど、村上春樹は今まで特殊すぎる世界を創作してきてると言うか。

「一致」が多すぎる。これは『カフカ』でも多かったですね。

でも現実世界ではそんなにいろいろカブる訳がなくて。

『アフターダーク』では、今までの村上作品では一致し、出会っていたであろう多くのものがすれ違っていましたよね。

むしろそのことが強調されていた。

黒いバイクの男とマリ&高橋、白川。

彼らは中国人デリヘル嬢をアダプターにしてつながっているのに、お互いそんなことを知りもせずにすれ違っていく。

現実世界ってそういうところでしょう。

今すれ違った人が例え「友達の友達」でも、そんなの知ったこっちゃない。

知らなければ、すれ違っていくだけ。



あとは三人称、しかも理想的な。

idealだと思いますよ、この三人称は。

意志と自己「我われ」を持つ三人称話者。語り部と言った方がわかりよいかしら。

こんな三人称、見たことない。

映画や舞台の観客をイメージした「視線」なんでしょうが、空間を自在に移動できてしまう。

小説でずっと使われてきた「三人称」という手法の分解。

この非おせっかいな、あるいはおせっかい不可能な「我われ」こそが、村上春樹が求めていた在り様なのではないかと。



思うに、今まで村上春樹は登場人物に深く関わりすぎていたのではないかと思うのです。

ずっと主人公=「僕」=村上春樹」だったし。

ひょっとしたらそれによって、村上春樹自身が「損なわれて」しまったのかもしれませんねぇ。

(私とバイト先のハルキストとの間でだけ最近流行の動詞、「損なわれる」。)

登場人物たちや「あっちの世界」とドライな付き合いをしようと試みているところかもしれません。

『カフカ』は「僕」の追悼作品で『アフターダーク』は「あっちの世界」の追悼作品?

あ、あと誰かの人格を損なうような絶対的暴力も、もう村上作品から失われてしまったのかしらん。

セックスも。誰も勃起してなかったよね?



何にせよ試験作と呼んで間違いはないのでしょうが。

でもこれ、十何年か何十年か経った後、村上春樹作品の変遷を辿る上での里程標的作品のひとつになるのも間違いないでしょう?

好かれ嫌われも激しい作品だとは思いますが、村上作品史上『ノルウェイ』以来の重要性を持つとも思うんですよ。



如何?

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なんか王道はずれてるのが好き。
テーマにまとまり無くてすみません。
残念ながらこれが私です。

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