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紫式子日記

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「青春のロシア・アヴァンギャルド」展

むかしむかし、かの地ロシアには
とてつもなく前衛的な芸術の「波」があって。。。


Bunkamura オフィシャルWeb



私自身が比較的アヴァンギャルドな子なので、
まじめに勉強しようと思っていたのだけれど
めんどくさがって機を逸したまま今に至る。

というわけでこの展覧会には「お勉強」しに行くつもりで出掛けました。
だからこのエントリも、「お勉強」の「復習」って感じで書きます。

「ロシア・アヴァンギャルド」っていちおう
Wikipediaにも記事あるんだけど、全く参考にならんな。



わかりやすく「きわめちゃった人」を挙げると、★マレーヴィチ
白地に黒の四角、とか。アヴァンギャルド。

マレーヴィチは画風の変遷がまんまロシア・アヴァンギャルドの
盛衰と連動
していて、最初から最後までたくさん展示されています。



1910年台、ロシアでは革命の気運が高まっていました。
帝政で虐げられた農民・労働者による、社会主義革命ですね。

そんな「時代の空気」を反映して現れたのが
「ロシア・アヴァンギャルド」でした。

土着的な「プリミティブ・アート」の見直しと、
ヨーロッパで起こっていたキュビズムからの影響が
モスクワで出会い生まれた潮流です。
王侯貴族が好むロココ的な?美意識からの脱却という側面もあったでしょう。



展示の1枚目には、カンディンスキーの写実的な時代の
絵画『海景』が選ばれています。

そこから徐々に、人体・形態が単純化されていき、
抽象的になっていく過程を見せてくれています。



途中で「ニコ・ピロスマニ」という、フランスでいうところのルソー、
日本でいうところの山下清みたいな人が紹介されています。

実はこの人、ロシア・アヴァンギャルドには関係なくって、
この人の紹介が入っていることで展示の流れが悪くなっているのですが
美術館的にどうしても紹介したかったらしい。

確かに説明のキャプションとか見る限り
「絵描き」として魅力に溢れた人で、
早くこの人単発の展覧会が開けるくらい
知名度が上がってほしいなぁという気にはなりました。



で、マレーヴィチの抽象まっさかりの作品とか紹介されていきます。
スプレマティズム=絶対主義 ってやつですね。

すっごいですね。
「本質はつねにテーマによってそこなわれてきた」
とか言い放ってたんですね、この人。
本質を掴む、そのために虚飾を払うって考え方は
社会主義的であり、革命的だと思います。



ロシア・アヴァンギャルドとキュビズムって一瞬見分けつかないんですけど、
おおざっぱに分ければ前者はパキッと明るい色使いが特徴かと。

ロシアって、近代美術に限らず明るい色使いが得意ですよね。
民族衣装とか民芸品(というかマトリョーシカ)の
鮮やかな赤とか、うん、やっぱ寒いところって
空気が澄んで色がきれいに見えるもんね。って感じです。



それから、ロシア~の方は「人」が対象として好まれてる。

キュビズムも人を描きますけれど、「絵画における実験」の
素材としてしか見ていない感じがする。
ピカソの『アヴィニョンの娘たち』とかそうだし、
デュシャンの『階段を降りる裸体』なんか、タイトルからして。

だけどロシア・アヴァンギャルドってイコン(聖像)や
土着芸術の再評価もベースに持っているっていうだけあって、
「人そのもの」を描こうとしている印象がある。

マレーヴィチの、農民を描いた絵とか。
シャガールの『ヴァイオリン弾き』は
「ロシア・アヴァンギャルドとはちょっと違うんじゃね~かな~」
とは思いますが、精神性、「描こうとしたもの」の面で
マレーヴィチに近いような気がします。



いつの時代も芸術の歴史は政治の歴史。

革命精神と連動して高まったロシア・アヴァンギャルドの運動ですが、
ソ連の社会主義体制が安定してNEP――世界史でやりましたね――の頃になると、
「抽象絵画は個人的」だという理由で弾圧され、
構成主義は「生産」に組み込まれ、芸術家たちは
デザインへの移行かリアリズム回帰かを選択させられます。

展覧会の最後を飾るのも、やはりマレーヴィチ。
「公に芸術活動を続けるために、選択せざるをえなかった」
リアリズムで描かれた自画像と、妻の肖像です。

初期の写実画に比べ、技術が向上していて、練熟を感じますが、ただそれだけ。
独自性や、「マレーヴィチである必然性」が何ら感じられない、大人しい絵でした。

「スプレマティズム(絶対主義)には出口がない。
 それは封印された同心円で、そこで滅びるために
 世界の道が集中する場所なのだ。」(N・プーニン)




以下、個人的お気に入り

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『ラブホテル』『イメクラ』都築響一



私は 都築響一に なりたい

もーちょっと早く生まれてて、もーちょっと行動力があったら
都築響一になれたんじゃないかな?笑
 なんて
うぬぼれてしまうほど、私の好きなもの、ツボまっしぐらの都築先生。



ヘンなもの、くだらないもの、必死なもの、
アングラなもの、サブカルなもの。
生活臭、というか、人の体臭を感じる被写体。

ヒトの愚かさと愛しさ、けったいさと創造性。
たぶん、私も都築響一も、それらを愛してる。


つ、わけで、『ラブホテル』『イメクラ』の2冊。
10年近く前の本を、再構成して再版してくれました。
アスペクトに多謝。



『ラブホテル』は、各オーナーのこだわりが垣間見えて微笑ましい。

ここに取り上げられてるようなハデなラブホって、
今じゃ風営法で取り締まられていて、ほとんど姿を消している。

明治維新からこっち、ずっと続く日本の
「まがいもの」建築史に連なるべきだと
個人的には思っているので、惜しいことです。



『イメクラ』は、こんな妙ちきりんなトコで
コトを致さなきゃならんのか。。。

と苦笑を通り越して失笑してしまうんだけれど、
どうにかして「世界」を築き上げようという努力がヒシヒシと伝わってくる。

あと、単純に足を踏み入れたことのない世界なので、興味深かった。
雑居ビルの、ドア開ければそこに教室だの電車内だのが再現されてるらしい。



非日常的なセックスのために、非現実の「リアル」を追究した空間。
ふしぎ……と思う。単純に。
我々の身体(性的な意味で)は、どこにあるんだろう?

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『鏡のなかの鏡』ミヒャエル・エンデ



『はてしない物語』『モモ』しか知られていない
ミヒャエル・エンデだけれども、こんなのも書いていたんですね。

なーんか、
ふつーのシュルレアリスム詩人になっちゃったんだなー、
ってかんじ。



『はてしない物語』『モモ』に欠けていた
「時代性」を意識した
……ってことらしくて、
たしかに20世紀的な虚無感、(絶望というより)無望感がある。

けれど、『はてしない物語』『モモ』は「時代性」を欠いていた、
というか、それに縛られていなかったから
あれだけ受け入れられたのだと思うし、
いつ誰が読んでも胸を打たれる物語になりえたんだと思うんだな。



単純にシュルレアリスム作品として見るなら、
過不足なく「教科書的な」作品なのだろうけれど、
べつにエンデじゃなくてもいいよなーってところ。
シュールは20世紀前半でやりつくされたじゃない!!

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