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紫式子日記

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ご丁寧なお言葉


「受付番号5番でお待ちの方」とか、丁寧な表現で他人を「方」って呼ぶじゃないですか。

これ、読み方「かた」ですよね。(あ、なんかカタカタうるさい文……;)

でもこの漢字、「ほう」とも読みますよね。

方向の方、方角の方、方面の方……。

元からある意味はこっちです。

directionのこと。

なんでこれが他人を指す言葉にも転じたかというと、

 「そっち方面にいらっしゃる人」

と、遠回しに表現することにより、丁寧さを示したから。

「あなた」 も古文じゃ「あっちのほう」ってイミだしね。



「山田様」とか、敬称の「さま」も一緒。

これは「よう」ですか。

元の意味は様子の様、様態の様、様式の様……。

これもストレートに「その人」って言うと無礼だからってんで、

 「その人物の様な人」

と、遠回しに表現したのが始まり。



これは何もニポンゴに限った話じゃなくて、エーゴとかでも一緒。

助動詞の時制を過去にずらして遠まわしにすると、より丁寧な表現になったり。

(ex."Will you ...?"より"Would you...?"の方が丁寧、willは現在の意志を示し、wouldは過去に抱いていた意志を示す助動詞。)



しかしこれ、なんでなんだろう、とちょっと考える。

わかりやすい方が親切じゃん? とか、思うのだが。



で、仮説。

丁寧な表現が、なぜ丁寧だと扱われるかというと、それはひとえに「されて嬉しい」からじゃなかろうか。

逆に言えば、遠まわしでない、ストレートな表現は、されて嬉しくない・不快なのでは。



物理的な話になるけど、指差されるとムッと来るよね。

これは「指差し=失礼」とする文化背景があるからだけど、なんでそう考える文化が出来たかっていうと、それはやっぱり指差されても嬉しくないからだろう。

形態的に、それこそ「刺されそう」な感じするしねw



言葉とかも、それと一緒なんじゃないかしらん。

直接的に自分のことを言われると、ちょっとドキッとする。

「あっちの方にいる人」ってワンクッション置かれた方が、感じ方が柔らかいのでは。



あとは、婉曲表現を敢えて使うことによって、相手の知能レベルを認めていることをアピールしてる、とかね。

単純な表現なら、粗野だったり幼稚だったりする人でも使えるけど、あなたは違うでしょ? て。




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読書三到


【読書三到】ドクショサントウ

《故事》書物の内容を理解するために必要な三つの事がら。朱子が唱えた読書法。

?口到(ほかのことを話さず、その書物だけを声を出して読む)

?眼到(ほかの事物を見ず、その書物だけを見る)

?心到(ほかの事物について考えず、その書物の内容だけを考える)

 ……のこと。



だってさ。

なるほど、そうすれば文献を読みこなせてレポートもサクサク仕上がるんだね!?(泣)


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『那天下雨了』蒋子丹


夏休みの宿題で、近現代中国の小説を(できたら原語で)読んで、書評を書くという課題が出ていた。

さっき=〆切り24時間前に、とりあえず終えた。目出度い。

ところで、読む作品をタイトル(と邦訳の有無)で適当に決めたので、うっかり文化大革命を舞台にした作品なんか選んでしまった。

政治色がスパイス程度にしか出ていない、メロメロメロドラマとか扱いたかったのに。うかつであった。



それがタイトルにした蒋子丹という作家の『那天下雨了』。

題名は「あの日は雨だった」という意味です。

一晩のうちに、革命に支障をきたす危険因子から、紅衛兵の憧れの的と扱いが変わり、おまけにその日の晩には反逆したという謂れを受け、結局逮捕されてしまう、青年革命家のお話です。

『ワイルド・スワン』で読んだんですが、そういうことは当時、ままあったらしいですね。

高級幹部が地位を転落させられたりとか。

しかしそれがあまりにオーバーで、現代の私たちには滑稽さすら感じさせます。

むしろ蒋子丹、それ狙ってるんだろうな。

アイロニーなんだろうな、これ。

文革自体は1966〜77年で、この小説が収録された単行本が刊行されたのは87年です、ちなみに。



しかし、『ワイルド・スワン』読んでも思ったことだけど、なんて異様な時代だったのだろうということ。

こんなの現実にあったんだー、て、戦前戦中の日本も似た雰囲気だったんだろうけど。

本当、「時代の空気」っていうか、「時代性」ってすごいな、ということ。

特に文革時代は、「この状況はおかしくない?」って思っても、ソッコー弾圧されたはずから、異様さがさらに増していたと思うけれど。



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朱・赤・明


最近、朱色が気になってんです。

やたら彼岸花が見たくなったり、ライトアップされた神社の朱鳥居に見とれたり。



そういえば先日、理系の友人に

「金魚って英語でGold Fishって言うって本当ですか?」

と訊かれ、そうだと答えてやったら、

「何で? あれ赤ですよねぇ、東西揃ってどうしてそんなに色彩感覚がおかしいんだ……。」

と頭をひねる。

仕方ないので、どこかで小耳に挟んだ気がする、「金・魚」をそのまま英訳したのだ、という説を教えてやったら、そこにはひとまず納得してくれた。

(この説、ウラ取れてないんで違ったら教えてください)

でも赤を金と呼んだ昔の人のセンスはやはり理解できないというので、適当に講釈してやったのが以下の内容。



まず、昔の人の色彩感覚(=呼び方)と現代人とのそれは違う。

この色を現代人は「緑」とカテゴライズするけれども、古代の人には「青」の一種だった。

これと同じノリでわかってほしい。

「あか」という音は「明るい」と同じ起源だ。

なぜなら、ほかの色と比べても赤というのは目立ち、あたかも光を放っているように見えたから。

金というのは、光を放っている(もちろん、正確には反射している)状態だ。

ゆえに、赤=明るい=金、という等式が成り立ち、赤い魚が「金魚」と呼ばれたのではないか、と。



「くろ」も「暗い」と同源だそうだし、そこんところはスタンダールが『赤と黒』を正/偽の対比に見立てたのに通じる色彩感覚があるのかもね。

「真っ赤な嘘」って言葉があるけれど、あれは嘘のイメージカラー:赤 なのではなくて、「ウソだと明らかな嘘」の意味らしい、やっぱり。

「赤ちゃん」てのも、純粋無垢=明=赤、っていうつながりみたいね。




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『踏みはずす美術史』


踏みはずす美術史―私がモナ・リザになったわけ
踏みはずす美術史―私がモナ・リザになったわけ




森村泰昌は好きですね。

だっていい男なんだもん(爆) アタマも良いし!

名画の登場人物や、歴史的女優に扮したセルフポートレートを発表している男性アーティストです。

その扮装ってのが、メイクから衣装からセットまで抜かりなく原画を再現していて、またエッロぉ〜い仕事っぷりなんです。

だから作品である写真を観ていても充分楽しいのですが、こんな美術評論(と呼んで語弊は無いと思う)も発表してるんですね。

大阪出身で上方仕込みのユーモアセンスしてるから、やることも洒落てるけど、文がまた面白いんだw

てな訳で、視神経だけでなく、言語中枢でもモリムラ美学を楽しんでみた次第です。



5章構成で、各章では「オトナ」「見る」「上手」「アメリカ」「オリジナリティ」という、"美術"を堅苦しくしているキーワードをモリムラ流に「踏みはずし」、森村氏なりの美術の楽しみ方、ひいては私たち読者それぞれの美術の楽しみ方を指南してくれています。

学校での「美術」の授業にうんざりしていたアナタにも、アート好きなアナタにもおすすめ。

「太陽の塔」「(ゴッホの)自画像」など、具体的な作品へのアプローチから論が進められてるんで、好きな作品のところだけ抜き読みするのもアリかもしれない。

ちなみに私のお気に入りは第2章の「モナ・リザ」。

モナ・リザへの扮装を試み、そして果たした森村氏ならではの斬新な、そして慈愛に満ちた「モナ・リザ論」が展開されています。

また、レオナルド・ダ・ヴィンチ×モナ・リザの関係を語ったのと似た手法で語られる、第4章のウォーホル×マリリン・モンローの関連も興味深かったです。



しかし、森村泰昌は好きですね。

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