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紫式子日記

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淫靡語考

先に淫靡語たると書きしは、世に淫靡なるさまをあらはすとさるることばなり。

或はそれ自ら淫靡たるさまをあらはさざるとも、淫靡なるものを思ひおこさすることばなり。

さてはかような淫靡語、字引に当たりたれば意味するところは似たりとも、ひと聞きしとき思ひ浮かぶる淫靡さぞ違ふる組み合わせあらむ。
例へ挙ぐるならば、淫靡なる語と淫猥なる語なり。

このふたつ意味するところはともにみだらなるさまなれど、淫猥の音、より下卑て聞こふるなり。

思ふに「わ」とぞ声にいだす口の動き、大きかれば、慎みのなくて聞こふるらむ。

淫靡が「び」ぞ口小さくて動かむ。

かようなる音の違ひ、思ひおこさするところ違へてむ。



されど卑猥なる語と比べしとき、淫猥なる語、なまめかしさにて勝らむ。

かく思ふは淫猥なる語の「ん」なる音持つにてやあらむ。

「ん」なる音、ひとが口中にて秘めらるる音なり。

秘めること、日の本のくににありては淫靡なることなり。

さればこそ卑猥なる語、淫猥なる語に劣るらむ。



なまめかしなることばもまた淫靡にてありけり。

されどいにしへの世にては若きことあらはす語なりき。

今の世に見らるる意味の変はりたるさま、いかでか起きしや。

これにつけても、思ふに、口が動き関はるらむ。

「な」「ま」「め」いずれもくちびる互ひに接す。

なまめかしと言ふくちびるの動きこそなまめかしけれ。

かようにしてなまめかしなることば、今が世に広まりつる意味帯びけむ。



恍惚たる語、いとあやし。

「こ」なる硬き音持ちたれども、呼び覚まするは淫靡なる心象なり。

このことばもまた口の動き小さければ秘めやかなるなまめかしさの妨げせざらむ。

或は恍惚の意味するところなる心さやかならざりしさま、事終えしのちのひとのさまに通じてむ。

字引に当たれば恍惚なる語の淫猥なる意味持たざるを見む。

いとあやしきかな。



よくわかる? 現代語訳

まず(題名に)「淫靡語」と書いたのは、世の中で淫靡な状態を表すとされている言葉である。

あるいはそれ自体は淫靡な様子を表さなくても、淫靡なものを思い起こさせる言葉である。

さて、このような淫靡語だが、辞書を引くと意味は似ているのに、人間が聞いたとき思い浮かべる淫靡さ・いやらしさが異なる組み合わせがあるだろう。



例えを挙げるとすると、「淫靡」という語と「淫猥」という語だ。

このふたつ(の言葉)は、意味は共に「みだらなようす」だが、「淫猥」(という語)の音は、(「淫靡」に比べて)より下品に聞こえる。

(私が)思うに、「わ」と声に出す口の動きが大きいので、慎みがなく聞こえるからだろう。

淫靡の「び」(の音)は口が小さく動く。

このような音の違いが、連想させるものを変えているのだろう。



しかし「卑猥」という語と比べると、「淫猥」という語は、なまめかしさで勝っているだろう。

このように思うのは淫猥という語が「ん」という音を持っているからだろうか。

「ん」という音は、人間の口の中で秘められる音だ。

秘めることは日本では淫靡なことである。

だからこそ「卑猥」という語は「淫猥」という語より(なまめかしさの面で)劣っているのだろう。



「なまめかしい」という言葉もまた淫靡である。

しかし昔の世の中では「若い」ということを表す語だった。

現代に見られる意味の変化は、どうやって起きたのだろうか。

これについても、(私が)思うに、口の動きが関係しているだろう。

「な」「ま」「め」のうちどれも、(発音するとき)唇が互いに接する。

「なまめかしい」と言うときの唇の動きこそがなまめかしいのだ。

このようにして「なまめかしい」という言葉は、現代広まっている意味を帯びたのだろう。



「恍惚」という語は、とても不思議だ。

「こ」という硬い音を持っているのに、呼び覚ますのは淫靡な心象(イメージ)である。

この言葉もまた(「淫靡」のように)口の動きが小さいので、秘めやかななまめかしさを妨げないのであろう。

あるいは「恍惚」(という語)の意味するところである「頭がはっきりしないさま」というのが、情事を終えた後の人間の様子に通じるのであろう。

辞書を引いてみると「恍惚」という語は淫猥な意味を持っていないのがわかる。

とても不思議であることよ。

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