2009/09/08 Category : Books 杉本彩とよしながふみ ~キリスト教的"食の道"と仏教的"食の道"~ 友人によしながふみ『愛がなくても喰ってゆけます。』と『杉本彩の男を虜にする料理』の両方を借りて読んだ。この友人は食べること好きで、食べる系の本・マンガも好きで『作家のおやつ』や『孤独のグルメ』なんかも過去に貸してもらったことがあるが、これほどまでに"食"に関するイデオロギーがはっきり主張されていて、なおかつ似て非なる方向を向いている2冊を同時に借りたことはない。杉本彩の"食"は体育会系であり、目的志向的であり、誤解を恐れずに比喩するなら「キリスト教的」であると思う。キリスト教には最終目標がある。裁きの日に神の側に選ばれ、とこしえの平安を得るという目標が。杉本彩の"食"はそんなイメージをもたせる。「男に愛されるため」「美しさを保つため」過酷な訓練を積み、"発表の日"に成果を出そうとする。一方、よしながふみにはそういった目的志向性があまり感じられない。かといってノホホンと、漫然と食を享受しているかというとそんなことは決してない。『愛がなくても~』には「どうしたらそんなに美味しい店を見つけられるの?」と尋ねられた際に、以下のように答えたエピソードが載っている。「あたし 仕事する時と寝てる時以外は ほぼ四六時中食い物の事を考えて生きてんのね てゆーか 仕事によっては仕事してる時も食い物のことを考えてんのね あたしがこんだけ食い物に人生捧げてきたんだから 食い物の方だってあたしに少しは何かを返してくれたっていいと思うの」その欲望はあくまでストイック、求道的だ。修業的ともいえる。『愛がなくても~』は、地道にウマいものを求める「求道」の結果、よしながふみが辿りついた、当時の段階での「境地」を描いている。しかし、これも「究極形」の趣は呈していない。もう10数年したら、もっとウマい店を集めた『愛がなくても~(2)』が描かれるのではないかという予感を覚えさせる。よしながふみの"食"へのこの姿勢がより顕著に現れているのは、最新作『きのう何食べた?』かもしれない。 ゲイのカップルが2人で食べる手料理のレシピを毎回淡々と掲載していくこの作品において、料理は相手の心を摑む手段や、美容を維持するための道具ではない。"食"は"食"なのだ、延々と続く日常を、節目節目で彩り、引き締め、明日につなげる日々の営み。果て無きこの探究は、私の目に"仏教的"とうつる。愛は"食"を救ってはくれない。"食"道においてよしながふみを救済しうるのは、よしながふみ自身なのだ。(そしてその救済が完了する日が来るという保障は、ない。)2人には共通点もある。「食をおざなりにする男とは一緒にいられない」という共通点だ。しかしこれはキリスト教でも仏教でも「他者を傷つけてはいけない」と言っているのと同じようなもので、「言うまでもないだろwww」という当然の部分がどちらでも書かれているにすぎない。 [0回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword