2006/03/27 Category : Books 『芸術家Mのできるまで』森村泰昌 芸術家Mのできるまで以前『踏みはずす美術史』を取り上げた森村泰昌さん。今回の本は、彼の自伝です。幼少の頃通っていた絵画教室から、高校での体育会系ノリの美術部、美術講師を経て現在の評価を得るまで……。そしてその間に生じた、外部との葛藤、内省などがつづられています。今回も思うことは、本当に頭いーなぁということ。もっと言うと、きちんと「美学」「哲学」を言葉で把握して、その発露として作品を作っている。つくづくそういう人好きだよね、私。デュシャンとか及川光博とかさ。この本でも、まえがきで独自の「自伝論」が披露され、それを「フィクショナル・ノンフィクション」と名付けています。また、70年代と80年代の差についての体験は、現代美術史を鑑みる指標にもなります。あとこの人の場合欠かせないのは、男/女に関する記述。小学校の身体検査で「男は裸でじゅうぶんや」と言われ、納得できなかった思い出も書かれています。世のなかは、裸でも平気な男たちと、裸でははしたない女たちによって成り立っているのではない。ひとの前で裸になるのがいやな人間と、それが平気な人間がいるだけである。ふたつの組にふたつの性を振りわけられるのが当然なんて、そんな法律は誰が作ったんでしょう。最も興味深かったのは、挿入されている論文『三島由紀夫あるいは、駒場のマリリン』。 森村氏はマリリン・モンローの扮装をし、東京大学の900番講堂での小林康夫氏の授業中、パフォーマンスをしたことがあるのです。そこから始まる、三島・明治天皇・モンローの3者をめぐる「オトコ」「オンナ」の考察、そこから導かれる国家論。加えて、森村氏がパフォーマンスを通して成し遂げたこと……すなわち、三島の天才と、マリリンの魅力を引き合わせる巫女的行為の意義が述べられています。それは三島やマリリンのように死ぬことなく、生き延びる道の提示だったのです。『踏みはずす…』の「モナリザ⇔ダ・ヴィンチ」説に通じる理論ですが、そこに「愛」と「美」がわかりやすく加えられています。踏みはずす美術史―私がモナ・リザになったわけ [0回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword