2005/01/28 Category : Art 『デュシャン展』 えー、昨日散々騒ぎましたが、本日!やっと行ってこられましたよー、『デュシャン展』in横浜美術館。正式名称「マルセル・デュシャンと20世紀美術 -芸術が裸になった、その後で-」。デュシャンねー、大好きなんですよデュシャン。アタマいいし。ユーモアあるしウィット効いてるし。美男子ですし! 「芸術って何だろう? もう、この時代じゃ何でもアリでしょ」と言うは多く、行うは少なし。だと思うんです、ぶっちゃけ。「何でもアリ」と言いつつ、みんなそこに大衆に媚びる「美」や「意味」を付随させたがるのではないかと。そういうのを本当にとっぱらって、真に「芸術を裸に」できたのは、後にも先にもデュシャンくらいだと思ってるんですよね、私。そしてデュシャン以降にそういうのをやって見せようとすると、今度はデュシャンが用意した新たな「芸術」の枠に沿ってしまっているだけの、デュシャンの二番煎じみたいになってしまう。言うは易く、行うは難し。今からそれやろうとすると、デュシャンを越えなきゃなりませんからね。……ってデュシャン崇拝ですね。ダダイズムの-ismは宗教の-ismなのでしょう、私の中では。まぁデュシャン本人が聞いたら冷ややかに笑い飛ばしてくれるでしょうけどね。あるいは不本意かも。何にせよ頭のいい人ですよ。大好き。あ、でもこれはデュシャン好きならずとも楽しめる展示だったと思います。チェックシート・プログラムがよかったですね。あれのお陰で、デュシャンの哲学に近づくという試みがしやすくなった。デュシャン作品メインの展示だったからこそ出来た企画だとも思いますが……。ちなみに私は「階段を降りる裸体」「瓶乾燥機」「ローズ・セラヴィ」でやりました。展示してある「もの(objet)」自体はそんなに感動を呼ぶとか、そういうのはなかったですけどね。全部いつも写真で見てるのとおんなじなんだもん。。。びっくりするくらいの既視感ですよ。やっぱり「オリジナルとレプリカは同等の価値を持っている」人なんですよね。それよりも「それ」がそこに「展示してあること」自体に意味があったというか……。デュシャンの作品って、彼の思想の具現化だと私は解釈しているんです。「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(通称:大ガラス)」なんかも、きちんと言語化された概念のメモがグリーン・ボックスに残ってるじゃないですか。でも作品として展示される「大ガラス」には、ひとつの文字による説明もない。なぜなら、作品がもうそれらの概念を包括し、描出しているからだ……と思うのです。だから、実は「それ」は(デュシャンが選択したものなら)何でも良く、「それ」がそこに「あって」、私たちが「観ている」ことに意義があるというか。んー、上手く言えない。『デュシャンは語る』読み直します。読んだけど実は中身憶えてない。ホント難解な「哲学書」ですよこの対話集は。と、まぁグダグダ書いてみたわけですが……とりあえずオススメです、とだけ申しておきます。デュシャンも「作品の評価は作者の意図とは無関係に、見る人が決めるものだ」って言ってたらしいですし、ご自分で行かれてみてください。「藝術新潮」予習してくといっすよ。「特別な知識は必要ない」(横浜美術館のサイトより)ってことですが、読んでおいたお陰で楽しめた部分、多々。私は立ち読みで済ませたのですが、ね;「大ガラス」に込められている物語も知ることができます。同じチケットで観られる「コレクション展」もいいよー。シュールレアリズム久しぶりに観た。ダリとポール・デルヴォーとハンス・ベルメールは自分的に拾い物。マグリットは好きなんだけど、いまいち感動しなかったなー。あと、横浜美術館初めて来たんだけど、ミュージアムショップが豪華。 [0回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword