2006/09/09 Category : Movies 『ピアノ・レッスン』 ピアノ・レッスン久しぶりのマトモな記事がこんな文学的エロ映画だなんて、紫式子としてすごく正しい感じで好もしいですね。言葉少なな映画です。主人公・エイダは言葉を喋らないし、タイトルから連想されるとおり、BGMが占める部分が大きい。その分、音楽+映像を通しての心象描写が際立っているんですよね。エイダの娘・フロラも虚言癖・分裂症的なところがあるように見えますが、話が展開していくうちに、エイダの戸惑う心を反映・代弁していることがわかってきます。直接的にエイダの言葉で語られないからこそ、不倫の恋に心が傾いていく、その過程がより痛々しく、より鮮明。まぁ、上手い映画ですよ。これだから女性監督モノって好きさ。ストーリーを申し上げれば、ある女性が自らの意志と自由を獲得していく映画……。19世紀英国社会というストイックな背景に、夫を喪った子連れやもめという、禁欲を強いられるエイダの立場。彼女の欲望を発散するのはピアノだけでした。(それもあってでしょう、エイダのピアノを演奏する手つきや手話は、やたら色っぽく演じられています)ですが再婚のために渡ってきたニュージーランドの荒々しい大自然(この映像美もすばらしい)と、その化身のような粗野な男・ベインズとに、「女」としての自分を明らかにしていきます。(以下、ややネタバレあり) 最後まで「自分の意志が怖い 何でもしてしまいそうな強い意志が」と惑いますが、その「意志」はついに、夫・スチュアートにベインズとの旅立ちを許させます。ラストシーンの妙にも呻らされる。ベインズとの暮らしを始めるため乗船したエイダは、ピアノを海に捨てることを決意するわけですが。そのとき、ピアノと一緒に一度沈み → しかし浮上、助かる というエピソードが入るんですね。恐らくこれは、キリスト教でいうところの「洗礼」。バプテスマで水を使うのは、一度過去の自分を[水]死させ → 神に受け入れられる状態に生まれ変わる という意味があるからなんです。この映画でのこの場面も、封建的な社会に生きていたエイダが死に → 自由な女として生まれ変わる という象徴になっているのでしょう。やや蛇足ですが、ベインズと幸せな暮らしを始めたエイダが時折「ピアノと海に沈んだ自分」を思い浮かべる姿には、村上春樹『スプートニクの恋人』で分かたれた、潤沢な欲望を持つミュー/何の欲望も抱けなくなったミュー を連想させられました。 [0回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword