2007/04/03 Category : Art 「リアルのためのフィクション」展 東京国立近代美術館 「リアルのためのフィクション」 Webページ狙って来たけど、やっぱりアタリだった。展示点数こそ少ないけれど、無料解説パンフレットに「アートとは昔から、 ひとびとの感覚を研ぎ澄ますための 『砥石』のような存在ではなかったでしょうか。」なんて書いちゃうカッコよさ。コンセプトは「リアルを把握するために、 あえて日常にフィクションを置くアート」ってことだったらしいけど、アーティストごとで、そのアプローチ法は違うように思えました。やなぎみわは「寓話シリーズ」をどこかで見て「ヤられ」たのだけれど、やっぱりスゴかった。Webで見るとわかりにくいけれど、けっこうデカいんですよ、この人の写真。その迫力と、蜷川実花の写真にそのまんまクロを増やしたような、色彩の鮮やかさ。そして、モチーフの切なさ、憂鬱さ、倦怠感。展示されている『案内嬢の部屋1F』は、特に諷刺性が強くて「ごっ、……ごめんなさい!」って謝りたくなる感じだった・笑。ソフィ・カルも面白かったな。ソフィをモデルに、知人が小説を書きたいって言ったらしいんですよ。ソフィはそれを快諾すると共に、自分がモデルとなった小説の主人公「マリア」に自分を似せて、行動するんです。その様を写真に撮ってあって、ざっくりいえばコスプレ写真なんですけど、なんだか楠本まきの『致死量ドーリス』みたいなハナシ。自己を追い求めるための、自己の放棄。致死量ドーリスイケムラレイコは、そんなにインパクトなかったかな……。塩田千春『bathroom』は、想像してたよりスゴかった。ソーゼツだった。お風呂場に泥水を満たして、体を清めるはずのオフロで体を汚すってパフォーマンスの映像なんですけど、まぁ「過剰な泥遊び」ですよね。んで、モノクロだから、脳内で勝手に彩色できるんです。するとなんだか、かぶってる泥水が血に見えてくるんですよね。いまゴシックとかバタイユ関係の本読んじゃってるせいなんでしょうけど、「供与の犠牲」ってゆーんですか、「左極の聖性」ってか……彼女自身そのパフォーマンスを「儀式」と表現しているんですが、「ここにいることを確認するには、そこまでやらなきゃいけない/いけないのか?」っていうことを、突きつけられた気になりましたね。 [0回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword