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紫式子日記

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「工芸の力―21世紀の展望」於東京国立近代美術館 工芸館

初・工芸館

なんとなく「工芸」って
黴臭いイメージで、行かずじまいだった。。。

イヤ、四谷シモンとか展示してたの、
知ってたけどね。。。


でも「21世紀の展望」なんて
タイトルに入れられたら、
見に行かざるを得ない。
「アートは生きるヒント」
というモットーに
反することはできない。
あ、初めて言ったけどね、このモットー。


いあ、おもろい作品ばっかし!

試みとして、いずれも高く評価したい。
しかも造形的にも美しいものばかり。


ショックだったのは、

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「わたしいまめまいしたわ 現代美術にみる自己と他者」於国立近代美術館

国立近代美術館Webサイト

澤田知子が来ると聞いて。

インターネットなどによる
コミュニケーション形態の
急速な変化によって、
「自己」も「他者」も
捉えがたいものと
なっているのではないか?


私たちは「自己」をどのように見、
「他者」をどのように見ているのか?


そんな問いを突きつけられる、
アイデンティティー揺さぶり展。

浮かび上がってくるのは、
「自己」には他者の視線が、
「他者」には自己の視線が、
構成要素として含まれていること。

「完全なる他者」が存在しないのと同様、
「完全なる自己」もまた、存在しない。

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『世界でいちばん俺が好き!』開幕ペナントレース 於下北沢OFF・OFFシアター

開幕ペナントレースWebサイト

演劇やってる友人に
波田野淳紘(劇団820製作所)ってのがいまして、
彼が客演するというので行ってきた。

波多野の演劇は割と詩的というか、
台詞で空白の空間に世界を織り上げる!
みたいな色合いが強いのですが、
開幕ペナントレースさんは真逆。


なんかね、
「マッスルミュージカルを
 7人でやってみた!!」

みたいな感じなの。

カラダ張るって、こうやるんだ……
っていうか。
明らかに負担掛かる中腰とか、空気椅子的な姿勢とかで
「お前らの肉体はここに現存する!!」
って怒鳴りつけられてる感じ。

あぁ、とりあえず暑苦しいんだ。
(注:褒めてます)


なんというか、最後に肉体は勝つ!
みたいな圧倒的な感慨を抱きましたね。

あの、なかやまきんに君からこっち、
HGとか小島よしお(OB)とか、
筋肉系芸人が絶えないじゃないですか。

それってだから、そういうことなんだと思います。

そういうことなんじゃないか
と思わされる、舞台でした。

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「荒ぶる神々の黄昏/なにものかへのレクイエム・其の弐」森村泰昌

シュウゴアーツWebサイト

森村泰昌さんの新作展です。


自分の作品を「愛だ」と言い続けてきた森村氏。
今回「愛のまなざし」を注がれたのは
チェ・ゲバラ、毛沢東、アインシュタインなど
「20世紀に活躍したけれど、
 なんらかの理由で浮かばれなかった人」。


女優のように「美しいもの」として
「観賞」されることはありませんが、
彼らの顔もまた、何らかのレッテルを
重ね貼りされながら「見られて」きました。
その中に潜り込んで、彼らがいかに
「見られて」きたかを追体験すること。

恐らく、世間の風評は厳しかったと思います。
その辛さを、彼らの身になって理解すること、
それが森村氏が21世紀のためにやりたいと
述べる「地鎮祭」なのではないか……


というようなことを、先日再提出した
卒論に書きました、ワタクシ(;._.)
何度メール送っても教授が返事
くれないのだが。怒らせたか?



森村氏のスタンスとしてはそんな風に
解釈しているのですけれど、
展示に関しては、
「ちょっと喋りすぎかな?」
と思った。

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『豊穣の海(二) 奔馬』三島由紀夫

あぁ、もうただ一言、
なんと疲れる小説か( ´・ω・)


前世(『春の雪』)では文化系美少年だった主人公が、
転生した『奔馬』では右翼テロリストに
なっておるのです( ´・ω・)

皇国を腐敗させる官僚や実業家を殺して
自分たちも死ぬ、って決心してるんですね、
当然ハラキリですよ割腹ですよ

でも周りの大人たちは、
彼を思いとどまらせんという
老婆心ではあるのですが、
彼の理想を踏みにじる訳ですよ、結果として

とはいえ書き手である三島は主人公の理想の
「崇高さ」をあくまでも書き続け、
物語の結末でそれを果たさせ、
そして第四部を書き終えた後
自分でも実行するんです。


という一連の流れを追うとだな、あぁなんと
文学的な、あまりにも文学的な中二病( ´・ω・)


日本が置き忘れてきた大変なものを
三島は一人で負わなきゃと感じ、
それを果たすのに死を以てするしかないと
思い至ったとしたら( ´・ω・)

彼にしてみれば私たちは
彼のあがないの上に
あんのんと暮らしていることに
なるのではないのか( ´・ω・)

あれは
「もはや暑苦しい者に味方はいない」
というのを示す事件で
「もう暑苦しくなくていい」
ということを逆説的に示してしまったのでは?

もし日本が国として軸がぶれていると思うなら、
彼の死に思いを馳せることが
その理由を考えるヒントになるかもしれない

別に行動主義や懐古主義に走る
ってハナシじゃなくね( ´・ω・)


なんてことを今は思う( ´・ω・)


とりあえずニコニコ組曲Jver.の動画観て
平静を取り戻した。
ごめんキミタケ、漏れ80年代生まれなんだ( ´・ω・)

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