忍者ブログ

紫式子日記

Home > ブログ > 記事一覧

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

『スリーピー・ホロウ』


スリーピー・ホロウ
スリーピー・ホロウ



せっかくジョニー・デップとティム・バートンなのに……。



いえね、音楽はさすがバートン・ワールドで好みよ。

使い方も上手いし。

陰鬱な風景もゴス的「死の美学」感たたえてて好きよ。



でもね、やっぱバートンはポップとダークの二刀流じゃなきゃイケナイと思うの! スゴく!!



その辺バートンもデップもわかってるぽくて、がんばってギャグとかコミカル性とか入れようとしてるのはわかるんだけど、それがかえって映画のフンイキから浮いちゃってる。

強引なハッピー・エンドも

「オチたの? ねぇオチたの? オチてないよね??」

と、思わず問うてしまうほど、違和感。



あと編集ね。

メリハリでいうと、前半の「メリ」が長すぎて退屈して、後半の「ハリ」も長すぎて飽食する。

うーん、だから、ポッp(ry……



でも、いま『ゴシックとは何か』なんて本読んじゃってる私には、ホラーに見られる穢れが聖さを侵犯するって要素がやけに面白く感じられて、そこは面白かったんだぞ、と。


拍手[0回]

PR

森村泰昌「烈火の季節 / なにものかへのレクイエム・その壱」




森村泰昌さんの新シリーズ「烈火の季節 / なにものかへのレクイエム・その壱」@シュウゴアーツ

当たり前じゃないですか行ってきましたよ。

なんつったって初日の今日は森村さん本人によるパフォーマンスがあったんですから!!



もしやと思ってたけど、やっぱり三島由紀夫の演説だった。

ただし、憂うのは国じゃなくて日本の芸術だった。



以下、作品の感想とどきゅめんたりーたっちのレポート。


拍手[0回]

『悪女入門―ファム・ファタル恋愛論』鹿島 茂


悪女入門―ファム・ファタル恋愛論
悪女入門―ファム・ファタル恋愛論



またこういう痛々しいものを読んで……と思われるかもしれないが、面白かったのでメモ。

まぁ「面白かった」とか言ってる時点でまたそれはそれで痛々しいんだがな。。。



あとがきによれば、仏文教授である著者が「女の媚び(コケットリー)を駆使して男を篭絡するという技術を知らない」女子たちが「誘惑術を無理なく学べる方法はないものでしょうか?」と考えて書かれたのがこの本なのだそう。

ファム・ファタルというのはラルース大辞典によれば「恋心を感じた男を破滅させるために、運命が送りとどけてきたかのような魅力をもつ女」

そういったファム・ファタルになる方法を女子に伝授する、というコンセプトの本です。

元は女性誌『FRaU』の連載です。



『椿姫』『失われた時を求めて』などのフランス文学の名作が、一貫して「何がファム・ファタルをファム・ファタルたらしめているか」「如何にして女子はファム・ファタルなりえるか」という視点から切り開かれています。

テーマも面白いけれど、学術的文章の書き方としてもお手本になる本だと思いました(大学生4年間やってきて、いまさら何言ってんの。)



いっちゃん面白かったのは『ナナ』かな。

なぜナナは男という男全ての富を食いつぶす高級娼婦になってしまったのか? という考察で、その原因を「貧困・暴力・性欲などのマイナス要因に対する女の側からの復讐」以外にも「下層階級が上流階級に対して抱く無意識の怨恨」があることを指摘しています。

さらにはナナも、ナナに貢いだ男たちも「近代資本主義のメカニズムの歯車」かつその「犠牲者」だったのでは……として結ばれています。

「恋と贅沢と資本主義の三位一体」

なかなか、うならされました。

あと「資本主義の犠牲者」ってのから思い出したのが『マドンナ真実の言葉』にあった「マリリン・モンローは被害者だった。でも私は違う。」っていう辞。

アレなんだよね、森村泰昌もマリリンを「(アメリカ・20世紀的なるものの)被害者」って呼んでるんだよね。




もちろん恋愛のHow To本としてもタメになります。

健気さを装う方法(マノン・レスコー)とか、凹ませた後のコンタクトのタイミング(カルメン)とか。

まぁアレなんだけどね、書かれたところで実践できるのかといわれれば、それはまた別の話なんだけど、ね。

拍手[0回]

【卒論】準備レポートから(3)「西洋―日本」


前の前の前ののつづき)



*     *     *

 セルフポートレイトの議論は、「西洋―日本」の関係性にもつながっていく。 表記は「西洋―日本」としたが、これはもちろん「西洋―非西洋」や「諸外国―日本」といった方が適切な場合もある。『空想主義的芸術家宣言』「第6の空想 空想主義的・現代日本文化論」での表現を借りれば「『マナ』的なもの―『カナ』的なもの」である 。

(※注:いずれも明確には定義されていないが、「マナ」的なものとは「文化の中心の世界進出を受けての国際感覚のキャッチのしかた」であり、「カナ」的なものとは「『マナ』的なものへの反動として内部で起こる文化的成長」である。)

 先回りして述べておくと、「見る―見られる」という対立の解消は、最終的には社会全体の破滅を回避する道となる、というのが森村の考えである。



 レンブラント同様「見る―見られる」の対立から出発したポートレイトを残しているとされるのが、三島由紀夫である。「西洋―日本」の対比に関する森村の議論は他にもあるが、そのほとんどに関連付けることができるというのもあり、今回は三島由紀夫に焦点を当てたものに留めて進めていきたい。

 セルフポートレイトと三島由紀夫が関連付けて語られるのは、先に挙げた『空想主義的芸術家宣言』「第7の空想 セルフポートレイトについて」である。そこでは日本人の「セルフポートレイトな気分」は高度経済成長でのファッションセンス・プロポーション両面の成長によるところが大きいとされ、西洋コンプレックスの終焉が見られているかもしれないと森村は述べる。

 その一方で「亡霊のように思い浮かべる」のが三島由紀夫だ。三島も、自らを被写体とした写真を多く残している。しかし三島のそれは西洋への文化的・身体的コンプレックスの表出であった点で、現代の日本の「セルフポートレイトな気分」とは異質なものであるとされる。「見る―見られる」に根ざしているとは明言されていないが、「西欧―日本」の関係が「見る―見られる」の関係であるとすれば、「見る―見られる」を意識し、なおかつその図式を印画紙の上に焼き付けたのが三島であった、とも言えるかもしれない。

 森村は「現代は、誰もが簡単に三島由紀夫(的世界)を足蹴にできる時代なのである」とまとめる。前述したように文化面・身体面ともに西洋へのコンプレックスは感じられなくなり、もはや「日本vs西洋」という構図自体時代錯誤になっている。三島は自らの肉体において「オンナ」から「オトコ」への性転換を試みたが(そして、日本という国自体にも同様の性転換を求めたが)、現代ではむしろ美輪明宏のような「オトコ」から「オンナ」への移行が、「賞賛されるべき未来形の選択」として尊敬されると森村は指摘する。そのような時代の変化において、三島を「亡霊のように思い浮かべる」のだとも。

 セルフポートレイトからは離れるが、『芸術家Mのできるまで』(筑摩書房、1998)には「三島由紀夫あるいは、駒場のマリリン」というエッセイが載せられている 。東大の900番講堂での、マリリン・モンローに扮したパフォーマンス について書かれている。幾分象徴的・観念的に過ぎるところがあるが、興味深い考察なので触れておく。


拍手[0回]

【卒論】準備レポートから(2)「画家−モデル」および「セルフポートレイト」


前のエントリからのつづき)

んで、「見る−見られる」を基盤として据えたときに、森村泰昌の「セルフポートレイト論」もその延長として見えてくるんだな。



*     *     *



 「見る―見られる」「見つめる」という関係性をより直接的に反映している項目として、「画家−モデル」および「セルフポートレイト」について述べたい。

 森村の中でセルフポートレイトと「見つめる」こととは分かちがたく結びついている。森村がセルフポートレイトを主題として扱っている評論で、現在私の手元にあるのは『美術の解剖学講義』「五時間目 セルフポートレイト論」と『空想主義的芸術家宣言』「第7の空想 セルフポートレイトについて」の2つである。前者の刊行は1996年(基となった講演は1995年)、後者は2000年であり、4年間の間隙がある。そのため「見つめる」ことに対する森村の論にも若干の相違が見られるが、セルフポートレイトを論じる際に「見る―見られる」という関係に対する新たな視線として「見つめる」を提示しているという点では共通している。








拍手[0回]

PAGE TOP