忍者ブログ

紫式子日記

Home > ブログ > 記事一覧

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

奇跡の2000マイル写真集ロビン・デイビッドソンあとがき訳

ミア・ワシコウスカとアダム・ドライバーが出演している、実話に基づく映画『奇跡の2000マイル』、そして、実際の旅の写真と映画のスチールとをまとめた『Inside Tracks』という写真集があります。




アダム・ドライバー演じるカメラマン、リック・スモラン(本物の方)が『Inside Tracks』に寄せた序文を、以前和訳しました。→ 奇跡の2000マイル写真集リック・スモラン序文訳

今回は対になる、ミア・ワシコウスカが演じた旅人、ロビン・デイビッドソン(本物の方)によるあとがきを和訳しました。
(いつかやりたいと思いつつ、2年掛かってしまった……。)

カプ厨的な意味だと、そんなにリック×ロビン要素は無いのですけれども、和訳という作業で彼女の文章と向き合うことで、その人となり、思考や感性を垣間見ることができた気がします。
ものを書くことや作家(特に自分の経験を書く筆者)であること、表現することについても考えさせられる文章でした。

今回も、映画は邦題の『奇跡の2000マイル』、原作本は翻訳書タイトルの『ロビンが跳ねた』と訳しています。
(いずれも英語原題は『Tracks』)


ロビン・デイビッドソンによるあとがき

過去は、私たちの後ろで陥没して溶解する。
私たちがそれを再構築するためのいくつかの手がかりを残して。
絶望的な作業。
歴史は現在の中で生きている。

私が愛しいラクダと愛犬と一緒に、オーストラリアの半分を歩いて横断してから、30年以上が経つ。
集中しさえすれば、特定の場所、私が動物たちに抱いた愛情、絶景に足を踏み入れたときの幸福感、小さいながらも致命的なミスを犯し、自分の無関心さを思い知らされたときの恐怖の不器用さ加減を、閃きのように呼び戻すことはできる。
しかしそれらは一瞬にして消えてしまう。

私は自分の旅の記録『ロビンが跳ねた』を、旅の終着点、インド洋に到達した2年後に書いた。
地球の反対側にある小さなみすぼらしいアパートで、驚異的な記憶力が発揮され、9ヶ月間、2700キロメートルを歩いた間の、全ての過程が鮮明になった。(あるいは、そのときの私にはそう思われた。)
しかし、本が出版されると、記憶は薄れ始めた。本に盗まれたかのように。
真の旅とそれを成し遂げたときの私は、『ロビンが跳ねた』と呼ばれる類似品と、私が自分と重ね合わせるのがとうに難しくなった若い女性の写真とを残して、全て崩れ去った。

それらの写真は見事なものだったが、見た瞬間から私を不安にさせた。
私は初めの段階で、それらが主観的な主体性の喪失を意味し、旅…「私の」旅はいずれ、それ自体の再構築に組み込まれるのだと理解した。
そして私は正しかった。
まずは私自身の本によって、次いでリックの写真によって、そして今は「実際に起こったこと」からさらに抽象化された映画によって、私の旅は乗っ取られてしまった。
映画『奇跡の2000マイル』が、本の核心を要約しようとする称賛すべき試みではない、という意味ではない。
むしろその点こそが、私がこの映画をとても気に入っている理由の一つだ。
それでもなお、それは抽象化の抽象化であり、否応なしに他の誰かから見たものになるのだ。
リックの写真が彼の旅の記録であり、私の旅のものではないように。

何年もリックの写真を見ると落ち着かなかったし、ほとんど見ようとしなかった。
だが今は素直に大好きだと思える。
それらは真の記憶に取って代わったかもしれない。しかし素晴らしい写真ではないか。
そして恐らく、この旅は一度も私のものであったことはなく、これからも私のものにはなりえない。
初めから、それは他の人々のものだったのだ。
作者の書いたものが、読者の数だけバリエーションを持つように。

では…この映画は?
『ロビンが跳ねた』は、出版されてすぐに、映画化が試みられた。
だがどのプロデューサーも脚本を上手く仕上げられなかったり、資金調達ができなかったりした。
書籍の映画化にはよくある宿命だ。
私はずっと、映画化されるならハリウッド映画ではなく、インディペンデント映画が良いと思っていた。
アボリジニの文化や歴史に関する部分を保護し、責任を持つべきだと思っていたからだ。
だから…例えばシドニー・ポラックなど…尊敬する人たちからの大規模な資金援助の申し出があっても断った。
だが共同制作という回りくどい方法で、結局ハリウッドに権利が渡り、その時点で私はすっかり興味を失ってしまった。
私は思った。
(a)映画が製作されることはないだろう。
(b)仮に製作されたとしても、私や本や私の旅に何の影響も及ぼさないだろう。

しかし、私の親愛なるエージェント、スティーブン・ダーブリッジは、興味を失わなかった。
そしてまたもや映画製作が失敗に終わった後、オーストラリアのエミール・シャーマンからオファーがあった。
彼は自分の会社、シーソーフィルムズに映画化権を与えるよう、私を説得した。
作家が、自分の人生を記録しようと提案する人たちをこれほど好きになるのは、かなりまれなことだと思う。
だがそうなった。
それに、本を書いてから何十年も経っていたので、以前よりもずっと、私自身と本との間に距離ができていた。
とにもかくにも、私はエミール、ジョン・カラン、そして願ってもいなかった女優・ミアを信頼することにした。

この映画は「真実」を描いているのか? 事実なのか?
まぁそうだ、そんなところだ。
と同時に、もちろんそうではない。
どうしてそうなるのかって?
どちらでもお好きな方をどうぞ。どちらも本当だ。

映画の製作現場に二度ほど、ちょっとだけ参加するのは楽しかった。
ミアにラクダとの触れ合い方を教え、セット上で時間を過ごした。
一度目は海辺の砂丘でだった。
小さな人影が、私の服を着て、ラクダを連れ、黒い犬を後ろに連れて現れたのを見て、私の目には涙が浮かんだ。
どうしてかはよくわからない。
そのシュールさのせいだったのか、何年も埋もれていた、古く深い感覚が呼び覚まされたからなのか。

そして、リックと再び時を過ごすのも楽しかった。
当たり前だが、彼は私が記憶しているのと全く違う形で物事を記憶している。
私が他の相手には決して言わず、彼にだけ話したことを、彼は憶えている。
私たちは相変わらず真逆の人間同士だが、困難の中で鍛えられ、忍耐の内に築かれた友情は、私たちが死ぬまで続くことだろう。

では、この常軌を逸した物語に、私は何を付け足すことができるだろう。
『ロビンが跳ねた』は、私が自分を作家だと認めるずっと前に、意図せず著した本だが、出版されて以来、一度も絶版になったことがない。
30年の間、内容の生々しい部分を削り落とす機会が何度かあったが、毎回断念した。
文章の不格好さはさておき、私自身の行動の裏付けとして、力強さと自信、そして真実への情熱を持って書かれた本なのだ。
そのままにしておこう。
そして、欠陥はともかく、この本が「実際に起こったこと」に最も近いことに変わりはないのだ。

私が最も多く訊かれる質問は「なぜ?」だ。
「なぜもっと多くの人々が自分に課せられた制限から逃れようとしないのか」というのが、より適切かもしれない。
もし『ロビンが跳ねた』に何らかのメッセージがあるとするなら、それは、単に慣れきってしまっているがゆえに自然に見えている、服従の要求に対しても、人は目覚めることができる、ということだ。
どこであれ、従うことへの圧力があるところ(従順さは大抵、他人の権力の利益のためのものだ)では、抵抗することが求められるのだ。
もちろん、今やっていることをやめて荒野を目指せと言っているわけでも、私がやったことを真似しろという意味でもない。
ごく普通の状況でも、冒険を選ぶことはできるということだ。
心の冒険、古臭い言い方をすれば、精神の冒険。

私に言わせれば、この問には全く答えがないか、あるいは答えがとても複雑で多岐に渡るので、それを掘り下げても無意味だと思う。
行動そのものがそれ自身を物語っていることを願う。
あの素晴らしい砂漠にいたいと思わない人がいるだろうか。

そしてその砂漠を旅するのには、ラクダが最も賢明な手段だった。
(トラックは買えなかったのだ。)
だが、たとえ単純な返答を試みたところで、いずれにしても私はもう、人生を賭けてその決断をした女性ではない。
私は「彼女」に親近感を抱いているし、時には誇りに思うが、「彼女」は私ではないのだ。

では「彼女」は誰だったのか。
その問に答えるには、「彼女」の時代を理解する必要がある。
1960年代後半から1970年代前半、何もかもが可能だと思われ、先進国の現状が若者たちによって徹底的に吟味された時代。

戦後の繁栄のみを経験した私たちは幸運だった。
私たちは金銭的不安を覚えることはなかった。
(私たちは別の方面で将来に不安を感じていた。核爆弾、冷戦とその緊張が高まる地域、生態系の崩壊などだ。)
私たちは共同生活をし、柔軟に、ほとんど何も持たずに暮らすことを学んだ。
私たちは、再現されるべき生物学的なつながりと同じ強固さを持つ、非常に強い友情を築いた。
政治に参加しない選択はできたが、政治を避けることはできなかった。
政治は私たちが呼吸する空気の中にあった。
そして政治は正義に関するものだった。
政治は高潔なものであり、職業政治家の低俗な権力闘争とは無関係のものだった。

私たちは戦後の核家族の閉鎖性、その安全と保障への配慮、特に女性は家庭内に留まるべきとするその前提に反発した。
私たちは社会を形成する政治的な力を、世界の大部分の人々が飢えている一方で私たちは物質的に恵まれている不公平さを、階級・人種・性別による力と機会の不均衡を理解したかった。
だが恐らく、私のような人間にとって最も重要なことは、自由ほど大事なものはないということだろう。
自分自身の考えを持ち、自分自身を形づくる自由だ。
そしてそのような望みは必然的にリスクを伴い、学習や発見、自己実現の機会を解放する。

もちろん今ここで私はありきたりなことを述べているだけで、現実はもっと変化に富み、複雑だった(私たちは甘やかされていて、わがままでもあった)。
だが誰しも、時代の「ありきたり」から大きく外れては生きられないのだ。
私は(少なくともある程度は)あの時代の希望、探求心、正義感の勢いに押され、アリス・スプリングスに到着したのだ。

アボリジニの土地権は、当時、立法化されたばかりだった。
若く、大学教育を受けた理想主義者たちが、その法律を施行するため、あるいはアボリジニに権利を与える組織を立ち上げるため、都市部からアリス・スプリングスに集まってきていた。
私はこの社会運動に直接関わることはなかったが(ラクダを訓練したり鞍を作ったりするのでとても忙しかった)、左翼思想に傾倒した旅人であったことは確かだ。
熱狂的にそれに共感したというよりは、右翼的な思想を嫌っていたからだが。
当時の私は作家ではなかったが、作家的な感性は持ち合わせていた。
作家の務めは、独立した視点で世界を見、見たままの真実を語ることだ。
そしてそれは当時のアリス・スプリングスでは簡単なことではなかった。(いつだってどこでだって、簡単なことではないが。)
当時のアリス・スプリングスには「正しい」政治的見解があり、それを100パーセント支持しなければ、対抗勢力に燃料補給をしていると非難された。
その道徳的圧力の下で感じた不快感は私の人生に残り続け、私は特定のイデオロギーへの確信に、常に用心深くあるようになった。

その頃からアボリジニたちの共同体の中からも、いくつかの相反する政治的視点が生まれた。
それは良いことであるとしか言いようがない。
一方で、オーストラリア政府はアボリジニの人々に公式に謝罪した。
しかし、それが彼らにとってとてつもなく良いことかどうかなんて、誰が言えるだろう。

そんな旅が今同じ仕方でできるだろうか。
いや、絶対に不可能だ。
当時に比べ、より多くの人がより多くの方法であなたを監視していて、より多くの手続きがあなたを阻み、より多くの立ち入り禁止区域とより多くのフェンス、より多くの車とより多くの制限があるはずだ。
新しい通信技術のおかげで、どんなに頑張ったとしても、あなたは道に迷うことはできないだろう。
私が旅立った当時はまだ、自由人として国を横断することや、あらゆる探知機から逃れること、自分の人生に全責任を持つことが可能だった。

プライバシーの概念も変化した。
最近ではプライバシーを要求すると、大抵の場合、疑われる。
私が旅をする決断をした動機は、極めて個人的かつ私的なものだったし、雑誌社から資金を受け取ることは、自分を裏切る行為だと感じた。
今なら奇異に思われるかもしれない。

70年代初頭に団体旅行が始まり、「姿をくらます」ために、四駆の車を買うのが流行った。
しかし当時でさえ、私はそれらの車に乗った人々のことを、ほとんどの場合、環境から隔絶されていて、本当の意味で何かを見たり繋がったりすることなく、ただ駆け抜けているだけだと感じていた。
彼らの車にはトランシーバーが付いていて、日焼け止めやエアコン、アウトドア用の特別な衣服、冷蔵庫などが詰め込まれていた。
彼らは「もの」を背負い込み、それらの「もの」は彼らを、その時いた場所から切り離していた。
その国を理解すれば、最小限の装備でその国を歩き回ることは、想像しうる限り最もたやすいことになる。

私は重荷を降ろしたかった。
不必要なものを削ぎ落とす。
その過程は、不必要なものを捨てていくという点では文字通りのものであったし、心の重荷を取り除いていくという点では比喩的、あるいは恐らく、形而上的なものだった。

私が思うに、『ロビンが跳ねた』の核心は、不要なものを削ぎ落とすことによって、別の種類の意識が立ち現れる瞬間だ。
ある意味、私はそれから回復することができていないのだと思う。
それは境界線を手放させる何かであり(最初はとても怖かった)、私の周りにある全てのものと繋がっている感覚だ。
私は神秘主義的な表現を使わずにこの現象を冷静に説明しようと試みた。

確かに私は自分のいる環境に敏感になり、物事の相互関係…私たちがその一部であるネットワーク…を意識するようになった。
アボリジニの老人・エディー氏との旅が、私をそのように変化させた。
この新しい心の状態は、伝統的なアボリジニの人々の土地との関わり方に似ているのではないか。
そう考えるのが、おこがましいことではなかったことを願っている。
世界の他の国々がその価値を理解するようになったときには、このような深遠な知識は希少なものになりつつあるというのは、歴史の皮肉の一つだ。
「ヨーロッパ人のオーストラリア」は、誕生してたった200年だが、その間に私たちの国に大きな損害をもたらしてしまった。

砂漠の機構は素人目には原始的に見えるが、家畜によってむち打たれ、外来種によって狂わされてきた。
絶滅の波が押し寄せ、そのスピードは加速している。
私自身が経験したことを書こう。
干ばつに見舞われているギブソン砂漠を旅したときも、そこは生命にあふれ、動物たちの食べ物も豊富だった。
1ヶ月後、最初の牧草地のフェンスにたどり着くと、そこは本当の砂漠の始まりだった。
死んだ、あるいは死にかけている雄牛でいっぱいの黄塵地帯で、有毒のテレピン(マツ科の植物)以外、地面に何も生えていない。
そのフェンスが、旅の中で最も憂鬱な転換点になった。

しかしたった30年で、自分がよく知っていた景色が、そこに戻ることを困難かつ苦痛に感じるほど様変わりさせられてしまうとは、予想しえなかった。

ときどき夕陽を見るため、砂の丘に登って座っていたのだが、そこにはトカゲや小型の有袋類、昆虫などの繊細な痕跡があった。
ペレンティーオオトカゲの這った跡、ヘビのかわいいうろこ、カンガルーの後ろ足の長いくぼみ、エミューの3本の爪あと。
夕には好奇心旺盛な鳥たちが私のキャンプを訪れ、ディンゴたちがすぐ近くで鳴き、ワラビーの足音や、在来種の小動物が立てる音や跳ねる音が聞こえた。
今や、これらの動物のうち、多くが珍しくなったり、いなくなったりしている。
彼らの痕跡は、ラクダや「猫ちゃん」の肉球、キツネの足跡やウサギの巣穴に取って代わられている。
どこを見渡しても、これらの新しい模様や痕跡が、菌糸のように地球中に広がっている。
別の地域では、暗い緑色のクリノイガ(※オーストラリアで牧草として使われる植物)がはびこっている。
アフリカから持ち込まれたこの植物は、あらゆるものを窒息させ続け、オーストラリア内陸部の独特な色調を塗り替え続けている。
ときどきこれらの変化に心が乱れ、二度と砂漠に行きたくないと思ったりする。
私のホームシックの気持ちは、二度と繰り返せない経験と、過去にしか存在しない人々や考え方への想いなのだと考えることもある。
この砂漠は別の「今」に属するもので、比較するのは愚かなことなのだ。

『ロビンが跳ねた』とリックの旅の写真、そして『奇跡の2000マイル』の「真実性」を比較するのが愚かなことなのと同じだ。
それぞれに独自の芸術性があり、それぞれが想像力の領域で他者と対話している。
当時のロビン・デイビッドソンは?
「彼女」への私の想いは、ミア・ワシコウスカへの想いと似ている。
賞賛と、不思議なほど深い繋がりと、愛情だ。
「彼女」が賢明にも、『ロビンが跳ねた』の末尾に書いてある通りだ。
「ラクダの旅は、始まりも終わりもしない。ただ形を変えるだけだ。」


ここから下は訳してみての私の感想です。ご興味おありの方だけどうぞ↓

拍手[0回]

PR

わたくしとダイエット・その後

昨夏(ちょうど1年前の7月)から減量を試みまして、半年で10kgダイエットしました。
そのときの記事↓
半年で10kgやせたよ・やったこと記録その1

その後リバウンドすることもなく、維持できています。


ダイエットに使ったのはNoomというアプリの有料コースでした。
情報が一画面にまとまっていて、入力までの画面遷移が少ないシンプルさと、iOSのヘルスケアと体重データが同期できるのが気に入り、目標達成後も食事&運動記録用アプリとしてお世話になっていたのですが……。

拍手[0回]

ミールキットを使ってみたよ

ミールキットなるものを使ってみたら、思っていた以上に具合が良かったぞという話です。

ミールキットとは、料理のレシピとそれを作るための食材がセットで売られているものです。
配達(宅配)してくれる会社もありますし、イオンやセブンイレブンなどでも売られているようです。

私が使ったのはヨシケイOisix

【ミールキット 良かったところ】

拍手[0回]

奇跡の2000マイル写真集リック・スモラン序文訳

ミア・ワシコウスカさんとアダム・ドライバーさんが出演している『奇跡の2000マイル』という映画があります。
「女ひとり旅」映画でありつつ、「付き合ってない男女バディ」映画としても最高の作品です。
そしてこちら、実話を基にした映画なんですね。


で、実際の写真と映画のスチールとをまとめた『Inside Tracks』という写真集も出されています。
ところが残念なことに、日本語版は(たぶん)出ておりません。


ですので私の方で、アダム・ドライバーさんが演じたカメラマン、リック・スモラン氏(Rick Smolan、リック・スモーラン)がその写真集に寄せてらっしゃる序文「A JOURNY IN PHOTOGRAPHS」を和訳いたしました。
現実は物語より最大手というやつで、すごいリックロビンの燃料なので、皆様と分かち合いたく、ここに載せます。

拍手[5回]

PAGE TOP