2005/01/20 Category : Social 記憶・思い出・想起 なんだか最近、ずぅっと忘れていたような昔のことを思い出す。古い知り合いと久しぶりに話しているときは言わずもがな、特に何のきっかけがなくとも、記憶が脳裏に飛来する(という言い方がいちばんしっくりくる)ことが増えた。 高校のとき、「記憶喪失になったのだが、3年ほどその自覚がなかった」という人物を主人公に設定し、小説を書くという無茶をしたことがある。そういう設定を平気でブチかましてしまうほど、記憶、特に自分の過去に関する「思い出」の存在意義を感じていなかった。いや、だってさ、日常生活で過去を回想する必要なんてある?確かに「アレはどこに置いたっけ」くらいの近過去に関する「記憶」は必要だけどさ、同窓会でもない限り、3年とか5年とか昔の「思い出」は、そう使わないでしょ?人間ならではの行動だろうね、「回想する」。野生生物だったら、何が危険で何が安全か、くらいを「憶えて」おけばいいもんなぁ。うちの飼いねこが母ねこを「思い出して」毛布もみもみしたりしてたけど、彼らだって意図的に「思い出した」のではなく、心地良い状態が、「心地良い=母ねこがいる」って変換されて、「母ねこがいるときにすべきリアクション」をよみがえらせ……って感じだと思うしなぁ。生物として生存し続けるだけなら、思い出なんていらない。身体を保護するのに必要な「知識」さえあればいい。なぜヒトの脳は「思い出」を残しておくのか。「思い出はすべて記憶してるけど 記憶はすべては思い出せないんだ」というのは森博嗣『すべてがFになる』の中の犀川創平のセリフ。浅田寅ヲが描く彼は、まじ好みなんだよなぁ。インテリで痩せ型でメガネ(←余談)。人間の記憶(いや、この場合「思い出」というべきか)ってなんか、想起して「自分」という存在を確認するためにある気がする。過去の結果として現在の自分、あるいは世界があるのなら、それらが現存するためには過去が存在することが必要で。「思い出」があるということは過去のその時点に自分が存在したことになるわけで。その「過去」は須らく「現在」につながっていて。だから自己の現存を肯定するためには、「想起」という行為が欠かせず。あるいは。私たちの認知はいつまで経っても「いま」に追いつけない。絶えず過去を確認するしかない。「現在」もまた認識するときには過去になってしまっている。(「今」と指し示したその瞬間は、指し示す時には過去になっている。)とすれば自分の現存すら「想起」によってでなければ確認できない……?「現存」を意思できてしまうがゆえに、それを肯定しなければならない人間の脳。その道具としての「思い出」。???あ、しかもなんかハナシが「想起」にシフトしてるぞ。だめですね、眠いときに小難しいこと書いちゃいけません。しかも小難しいハナシ、ひっさしぶりだしな。こういう小難しい内容のレポートを徹夜で上げるつもりだったんですが、今書いてみたカンジでは無理そうなので、諦めて寝ます。3時間くらいで起きられたらいいんだけど、まぁ無理でしょうね。思い出の存在意義……「心の糧」とかロマンチックなこと言わないでくださいよ、お願いですから!いちおこれでも去年大脳生理学の授業、単位もらった「隠れ理系」なんですから!「可」だったけどさっ!!! [0回]PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword